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座間味村において慰霊祭による自由参拝がありました。

座間味

うりずんです。

  太平洋戦争沖縄戦は座間味村が米軍の第一歩の地として大勢の犠牲者を出したその日が六十六年前の 3月26日で、当時の戦争犠牲者を祀った平和の塔で座間味村役場が住民や観光客に呼びかけて自由参拝となり、多数の参拝者たちが訪れて冥福を祈りました。

 その日は役場職員によって平和の塔の前に祭壇が設置されて、宮里哲座間味村長や宮里正太郎座間味村遺族会長、他、住民や観光客たちが当時、犠牲になった住民や兵隊たち千二百柱の御霊に対して参加者全員で焼香をしました。

 その後、村民達は死んだ方たちの名前が刻銘されている石地の前で当時を忍んで懐かしがって語っていました。

参拝をする村民の皆さんです。
DSCF0773.jpg

 平和の塔の前で当時の戦争の話をしていた皆さんです。

DSCF0783.jpg



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座間味村の戦争の話です。

座間味

うりずんです。

 座間味村字阿佐地区に住む宮平春子さんの戦争体験話です。

 これは豊見城市に在住の宮城恒彦さんが聞き取りしたのを掲載しています。

    お父さんを恨まないでね。

 昭和20年3月23日から米軍上陸前の空襲が始まりました。郵便局の近くに落ちた爆弾の暴風で春子の家は潰れてしまいました。それからは防空壕の中での生活です。産業組合の防空壕から少し離れた松林の中に家族の壕は掘られていました。

 空襲が止んだ夕方、姉の峯子と2人、壕から出て家に戻りました。壊れた家の中から食料になるものを捜し出しに行きました。牛小屋も倒れ、牛もやられていました。後で盛秀兄が肉を切り取って壕に持ち帰り、煮て食に供したが、その味はまずいものでした。

 24日も朝早く家に戻って、壕での生活に必要な食料などをあさっていました。かき集めたものを風呂敷に包んで壕に戻ろうと姉と歩いていました。

 突然、高月山より低空してきたグラマリン機の編隊が一列になって村に機銃掃射を浴びせました。とっさのことにあわてふためいた2人は近くにあった壕に飛び込みました。

 そこにはたくさんの村人が避難していました。名前を確認することのできる余裕などありません。少し落ち着いてからまわりを見回すと、島の青年ではない見知らぬ男性が数名いました。春子たちの近くに居た彼らの1人が「姉さん、ペイグン(米軍)上陸間違いない。カクコ(覚悟)できていますか」
 と言います。言葉のなまりから朝鮮軍婦ではないかと察しました。即座に「覚悟できています」答えたものの、あたりの空気に、いたたまれない気持ちになっていました。

 何かの集まりの時には、彼女たちは「潔よく(いさぎよく)死ぬ覚悟をせよ」といつも訓辞を受けていたので、こういう言葉がすぐ口をついて出たのでしょう。男子青年の集まりには次のような歌の力強い斉唱も聞かれました。

  日本男児と生まれて
  戦の庭に立つからには
  名をこそ惜しめ兵(つわもの)よ
  死ぬべき時に清く散れ
  御国に尽くす桜花

 島の男女青年団は団長の指導の元で、毎日次のような訓練を繰り返していました。朝早く係の者が主要な道の四つ角で太鼓を「トン・トン・トン・トン・トン・トン」とたたくと青年たちは浜のモウ(草原)に集まります。そこから鎮守の杜「マカ-」まで駆け足で行進していきながら「米英撃滅、米英撃滅」とかけ声をくり返します。マカ-の杜の広場で「忠魂碑」をバックにして「海行かば」を斉唱するのです。

 「海行かば水ずくかばね 山ゆかば 草むすかばね 大君のへにこそ死なめ
かえりはみはせじ」

 声が小さいと、何度も繰り返して歌わされました。
 その後、女子青年たちは学校の運動場で竹槍訓練をします。40名ばかりの人数を5組に分けます。そして、学校に保管してある2メ-トルばかりの竹槍を持ち出してきて、両手で構えて勇ましく10歩ぐらい前に突進していきます。そして、敵兵を想定して作られた藁人形に「エ-イエ-イ、ヤア-」の掛け声と共に力強く突き刺す仕草をします。その後、後退してゆき、列の後尾につきます。その訓練を繰り返すのです。

 アメリカ兵が上陸してきたら、このように戦うのだと叩きこまれたのでした。春子たちはその事を疑わず、真剣に訓練に励んでいました。

 アメリカ兵は弱虫だ、さらに、竹槍に怯(おび)えて逃げていくのだ、と信じ込まされていた純情な乙女たちでした。
 
 夕方空襲がやんだので、春子と峯子の2人は自分の家の壕へと急いで移動しました。着いてみると、壕の中には16名の人達がうずくまっていました。その食事を作るのは春子の仕事だったのです。

 田んぼから汲みとってきた水で米を洗い、ご飯を炊きました。焚き付けが悪いので、クバ扇であおぎましたが、なかなかうまくゆきません。壕の中なので、煙が充満してしまい、むせぶ者もいます。

 精一杯がんばっても、せいぜい1人に1個の握り飯しか作れない量の米しかなかったのです。横になる広さもないので、みんな座ったまま、眠れない夜を明かしました。
 25日の朝も姉の峯子と2人で自宅に出かけ、食料らしきものを取りに出かけました。定刻出勤のように米軍の飛行機はやってきて空襲を仕掛けます。その隙間を狙って自分の家とかけていきました。味噌カメに残っていた味噌をかきとり、米を集め袋にいれ取り込みました。

 25日翌日の朝方、帰りも敵の飛行機は盛んに空襲を繰り返しています。道々石垣や木陰に隠れるようにして、自分たちの山の壕をめざしました。来たコースは飛行機の襲撃にあう恐れがあるので、丘の麓に沿ってかがむようにしながら、内川の方へと突っ走っていきました。

 自分たちの壕に差しかかった時です。突然、低空して来た飛行機が爆弾を落としたのです。「ドトーン」という重い轟きと共に黒い硬い泥水がすごい勢いで襲って来て顔に当たり、春子は吹き飛ばされ、近くのに在った壕の中に叩き込まれました。目の前が真っ暗になってしまい、しばらく意識を失っていました。

 気がついたら、壕の中には数名の日本兵がいました。彼らも爆風で飛ばされた泥をかぶっていました。1人の日本兵が言いました。「この空襲様子では、米軍の上陸は間違いない。彼らに捕まれないように、死ぬことを覚悟していてくださいよ」
 と、また言われました。

 「覚悟はしています」

 素っ気なく答えました。その意味する内容を深く考える余裕など頭にはまったくありませんでした。早く自分たちの壕へたどり着こうとの一心でした。爆音が遠のいた隙(すきま)にさっとその壕を飛び出していったのです。

 近くの田んぼの中で爆弾は炸裂したので、泥水をかぶされただけで、2人とも幸いにケガはありませんでした。泥だらけの相手の見ても何の感情もわかない放心状態になっていました。

 晩になっても艦砲は止みません。9時頃、それまで、軍との接触が多く、家族にほとんど顔を見せなかった助役でもある兄の盛秀がやってきてきました。父親に近づいてきておもむろに

 「お父さん、米軍の上陸はまぬがれない。軍の命令で、潔よく玉砕しなさいいと言われているから・・・・」
 と淡々と告げ、話は続いていました。しかし「玉砕」という言葉を聞いた春子は頭の中が白くなってしまい、兄の語るその後の話は消えていきました。
 しばらく間をおいてから父親は

 「どうしても死ななければならないのか」

 と弱々しくたずね、その後に言葉は続きませんでした。
 それまで、夜遅くまで軍といろいろと打ち合わせがあって帰宅が遅くなっていた息子に気がついていた父親は、とうとう来るべき時がきたと言わんばかりにの悲壮な面持ちでした。多くは話しませんでした。

 さらに盛秀は
 「軍の命令だから仕方がない。これまで何の親孝行もできなかったが、あの世で孝行してあげるからね」
 と涙声で語り、春子が田んぼから汲んできた水を湯飲みに入れて、親子で水杯を交わしました。

 その後は2人ともただ黙っていました。壕の中には嗚咽(おえつ)がもれているばかりです。声を出す人もいません。地獄の扉の前に立たされているような、張りつめた空気になっていました。

 壕の外では照明弾の薄紫の怪しい光が廻りを照らし、艦砲の炸裂音が遠くなり、近くなりして唸(うな)りと地響き立てています。

 地獄へ追い立てるような不気味な悪魔の叫びと光のようです。
 盛秀は、7歳の長男と6歳の長女、そして4歳になる次女の美枝子をひしと抱きしめて
 「こういう風に我が子を国の為とはいえ、自分の手にかけるとは忍びない。生まなければよかった。お父さんを恨まないでね。怖がらないでね、お父さんもお母さんも一緒だからね」

 と子供たちに言い聞かすような、また、自分を納得させるような絞り出す涙声には、無念さと哀切(あいせつ)さがこもっていました。

 結婚していなかった春子はこの場の兄の心境を察して涙するだけでした。最後のご飯ということで、1個ずつ握り飯が配られました。「死」というものが何か知らない子供たちは腹が減っているので、がつがつ食べています。その様子にいっそう胸が締め付けられました。大人は誰も握り飯を手をつけませんでした。

  ハンマヨー アレー敵(大変だあれは敵だーアメリカーだ)

 25日の夜の11時頃、家族はゾロゾロと「マカー」の杜へと盛秀が先頭になって歩きだしました。相変わらず艦砲は飛び交うし、照明弾の閃光が辺りをセピア色に染めています。丘を下り、学校裏の農道を歩いていました。

 春子は死にたくないと思いました。兵隊たちには死の覚悟はしていますと答えはしたものの、どうにかまぬかれる方法はないものか、道々考えていました。どんな方法でこんなに多くの村民たちを殺すのか、疑問に思いました。

 もし、毒物の「猫イラズ」を渡されたら、飲むまねをして、吐き捨てよう、また、銃剣で刺しころされるなら、番が回ってくる間に暗闇の中を逃げ込もう、と、死をさけるいろいろな方法が忙しく頭の中をかけぬけています。しばらくすると、マカーの方から黒い人影が走りながら、春子たちの側を通りかかりました。
 
 「マカーには誰もいないよ。艦砲が2個落ちたので、集まっていた人達は散っていったよ」
 と、狼狽(ろうばい)した声を投げかけながら突風のように去って行きました。

 宮里家の一行は盛秀の指示で引き返すことにしました。産業組合の防空壕についてみたら。すでに村人たちで壕の中は詰まっていたが、義姉のトヨと峯子は入り口近くの人を押し込むようにして中に入りました。トヨの次女の美枝子を背負っていた春子は入り口近くに立っていました。家族の皆が入れないので、盛秀は壕の中に向かって大声で呼びかけました。「皆さん、この壕は役場の人たちが避難するところですから、関係のない人たちは出てください」

 すると、壕の奥から
 「皆さんと一緒に死なせてください」
 と女の人の声が帰ってきました。
 「私たちは皆さんの責任まで持てません。各自その方法を考えて行動して下さい」
 と盛秀は説得しました。けれども、
 「産業防空壕は皆のものでしょう。先に避難した人に優先権はあるのではないですか」

 と言い返されて、出て来る者はいませんでした。一歩でも外にでると、廻りに炸裂する砲弾に当たってしまうという恐怖心が皆のむねに巣くっていたのでしょう。

 盛秀が壕の入り口で顔を中に出し入れして、退去を依頼するが、壕の中の人たち出てくる気配が全くありませんでした。仕方なく、盛秀は家族の者に自分たちの壕へ戻る事を指示しました。
 しかし、盛秀の妻であるトヨは、夫と共に居たいということで、2人の子どもを伴って残る事にしました。春子がおんぶしていた美枝子はトヨに「よろしくね」といわれて、預かってその他の家族と共に丘を滑ったり、転んだりしながら艦砲の音や照明弾の閃光に終われるように自分たちの壕へと引き返したのです。弟の直は連絡係りとして産業防空壕にとどめられました。

 この一齣(ひとこま)が兄の家族と弟の見納めの顔となってしまいました。一晩中、艦砲は轟いていました。春子は壕の中で敵の上陸の場面をいろいろと想像して眠ることができませんでした。

 夜が明けて、26日の朝になりました。艦砲の音は消えています。飛行機は上空を旋回しているが、爆弾を落としたり、機銃を掃射したりする様子もありません、廻りは元の村の静けさです。ただ空襲で焼けた山々はまだくすぶっています。

 組合の壕に残っていて、連絡しにくるはずの直の姿が見えません。父は壕から出て外の様子をうかがっています。「どうしたんだろう」と怪訝(けげん)そうです。なにか人の気配がありそうなものだが、と父は廻りを見回しているが。人影が見えません。

 その時、子どもたちが盛んに水をほしがってわめいています。かれらのために下の田んぼから水を汲んでくるように、と春子は父に言いつけられたが、1人で行くのを怖がったので、父親もついて行ってくれました。下り坂を途中までやってくると、前後を兵隊に挟(はさ)まれるようにして田んぼのあぜ道を移動していく数人の村人たちが見えました、父は「日本兵たち島人を避難させているんだ」
 と言います。しかし、春子は

 「お父さん日本兵なら脚絆をまいているはずなのに、あの兵隊たちはズボンのままだよ。怪しいよ」
 と疑問をはさみました。すると、父は
 「朝鮮群夫の兵隊だ」
 と言い返します。そして、丘の上を振り向きました。すると、兵隊たちが手招きして
 「ヘーイヘーイ」

 と呼んでいます、父は日本兵が避難指示をしてくれると思ったらしく、声のする丘の方へと登りだしました。春子もついて行きました。ところが、それらの人影に近づくにつれて米兵とわかり「ハンマヨー、アレー 敵ドゥエシガ」(大変だ、あれは敵だ)

 と、頓狂(とんきょ)な声を出し、自分たちの壕へ駆け込みました。春子もすかさず父の後を追っていきました。
 すぐさま、父は家族全員を引き連れて、坂を滑るように高月山に登る谷間へと誘導しました。

 そこで外兼久(ふかがにく)からジキランガーに嫁に来ているシゲさんが、2人の子どもを連れて右往左往している場面に出会いました。父の盛永を見つけると、すがりついてきて、
 「ネコイラズは持っていませんか・カミソリはありませんか」と血眼(ちまなこ)になって迫ってきます。
 「どうして」

 との質問に

 「死にたい。お父さんは支那事変で死んでしまったし、早くお父さんのところへ行きたい」
 と涙声でシゲさん口走るのです。

 お父さんは
 「死ぬのはいつでもできる。そんなに急ぐ必要はない」

 と引き止められました。しかし、彼女は聞く耳持たぬ様子で、ただ狼狽(ろうばい)しているばかりです。彼女たちかまってはおられません。敵兵はすぐそこまでやってきているのです。春子の家族は急いでその場をはなれ、高月山を経由して阿佐村に降り、さらに大浜に作っていた自分たちの農具小屋に避難しました。

 そのジキランガーの家族が整備中隊の大和馬の壕で家族全員、集団自決をしてしまった、と知ったのは戦後の事でした。
 さらに、兄、盛秀の家族など役場職員、村の人たち59名が産業組合の壕で集団自決をしたことがわかったのは、春子たちが山を下りて、しばらく経ってからでした。

      宮平春子さんの戦争体験談よりでした。

 ジキランガー家族36名が集団自決をした大和馬(整備中隊壕)の入り口です。
3名のおじーたちが全員を絞め殺し最後に1人のおじーが2人のおじーを殺したのですが、自分では死にきれず
戦後生きていたが毎日のように辛い日々を過ごしていました。
1大和馬壕

東北地方太平洋沖地震の津波の影響がありました。

座間味

うりずんです。

 東北地方太平洋沖地震は日本全国を巻き込んだ大きな地震になったが座間味村も緊急に対策本部を設置して村民を避難勧告により各避難所に移動していました。

 座間味島は座間味小中学校の二階の視聴覚教室には座間味島内の老人達を優先先導案内して、阿嘉島、慶留間島の住民も避難所として指定している場所に先導されて様子を伺っていました。

 座間味村役場防災無線放送と救急車広報マイクによって村民に徹底して周知され殆どの住民が避難態勢に入っりました。

 観光客の避難もあり今回の地震の重大性を感じさせられました。

 又、海上では船の損傷を防ぐために沖合にでるなどして事故を未然に防ぐために殆どの船が島より、離れて対策を講じていました。。

 又、定期船のフェリーざまみは午後2時に出港したが客を乗船させず泊港について直ぐ那覇港沖合での待機対策がひかれました。

 高速船のクイーンざまみも午後四時二十分に出発して沖合での長時間待機とするために客は一人も乗船させず泊港沖合に停泊しました。

 昨日は津波の現象などは確認出来なかったが、今朝、早朝より、連続で約6分間隔で津波らしき現象が約1メートルちかくの満ち干が確認されました。

 観光客が5日より、座間味島にダイビングに家族5人で訪れている千葉県市原市在住の村上篤さん(18歳)「は座間味には二回目だがまさか座間味島で津波が見れると夢にも考えていませんでした。信じられない現象ですね。今日の定期船で帰る予定でしたが帰れません」と語りました。

 又、座間味村で今月よりホテルのヘルパーとして静岡県の弁天島よりやってきた鈴木はまなさん(三十二歳)「弁天島の両親が気がかりです。昨日電話はあったのですが、その後から電話が通じないので大変心配です。直ぐ帰りたい気持ちです」と語りました。

社会福祉協議会の職員座間味小中学校職員達が島の老人を誘導案内している所です。

DSCF0592.jpg

村上篤さんです。
津波にはビックリしていました。
DSCF0618.jpg

鈴木はまなさん勤務しているホテルシラハマインです。
皆でボートなどが被害に遭わないように対策していました。
座間味村は、この津波には大変な損害がありました。観光客が激減です。
でも、ザトウクジラがこれからもみれます。3月26日はクジラと花の音楽祭も行われます。
どうか座間味村におこしください。歓迎お待ちしています。
DSCF0625.jpg

座間味島での戦争の聞き取りの冊子最終回となりました。

座間味
うりずんです。

 太平洋戦争沖縄戦において慶良間諸島は米軍の上陸第一歩の地で悲劇の島になったことから座間味村字座間味区出身の宮城恒彦さん(七三歳)豊見城市字渡嘉敷在住が平成元年より、座間味島で悲劇な戦争体験者の聞き取りを行ってきたましが、

 それをまとめ冊子にしてきた。最近においても沖縄戦体験記録として二十三号を発刊しました。

 今回までに二十四人の人達から聞き取りを行ってきたが今回で最後の発刊とのことだ。宮城さんも当時小学校四年生、玉砕現場に居合わせた戦争体験者でもある。宮城さんも体験談も冊子にして無償で村民や戦争に対して興味をもたれた方達に配布してきました。

 その後も座間味村の悲劇だった戦争のことを風化させては行けないとのことで長年に渡って戦争体験者達の聞き取りをしてまとめてきました。

7日の定期船で冊子は島に送られて村民に配布されました。

 今回の冊子は戦争当時一緒にいた宮里美恵子さん(戦後最近死亡)の証言と当時、助役だった宮里盛秀さんの妹、宮平春子さんの証言二名で、冊子のタイトルが春子さんの内容により、「お父さんを恨まないでね」

 題して生々しく掲載されている。九日に受け取った春子さん「当時集団自決で死んだ家族と弟の直と盛秀兄さんはこの本の事実に基づいた内容は本当に天国で喜んでいることでしょう」と涙しながら喜こびました。

DSCF0585.jpg

座間味島に住むある老人の満州での戦争体験話です。

座間味
うりずんです。

座間味村元村長宮里正太郎さんの満州での戦争状況の話を掲載しました。


 3月26日遂に米軍が、我が郷土座間味島に上陸、当時私はハイラル東山家族診療所勤務でラジオ放送で知りました。

 新聞にも慶良間海峡に無数の米軍の艦船が碇泊してる写真が出ていました。

 とうとう沖縄も戦場になったのか、座間味の戦況が気になる。家族の安否は村民の事が、ただ無事を祈るだけ、夜中に屋外に出て島の方向に向かい手を合わしました。

 4月1日 米軍沖縄本島上陸する。

 5月1日 衛生下士官候補者を命じられハルピン(哈爾濱)第一陸軍病院に教育のため派遣されたのです。

 5月2日ハルピン着、教育途中、突如ソ連軍が不法に満州国に侵入、日ソ海戦となったのです。

 そのため直ちに病院での教育は中止終了、即日原隊復帰を命ぜられて、ハイラルの原隊に帰る途中列車はシャラントン駅に停車、その時、私は駅の周辺を見たら多くの避難民が北の方(国境の方)から南に移動して来た人々や、これから南へ移動する避難民で右住左住のごった返しの様相を見て私は胸がつまり涙が流れ出しどうしょうもなかったのです。

 (何で涙が出たかわからない複雑な気持ちでした)又、その時、思いかけずに私達の部隊の兵隊に会い、 どうしたのかと聞いたら部隊はここ シヤラトンに移動、野戦病院を開設しているとのことを聞き急いで装具をまとめて下車して部隊に復帰しました。私は小学校で分院を開設していた分院の炊事班長を命じられ勤務についたのです。

     7月1日  衛生伍長を拝命
     8月9日  ソ連対日宣戦布告
     8月15日 終戦 

 当日の昼頃部隊命令で下士官以上は市内の市民病院に集合、天皇陛下から重大放送があるから聞くようにとの事で病院に集まり玉音(放送)を聞いたが電波が悪くて私達には何の事か良くわからず部隊に帰ったら、日本は無条件降伏した。日本は負けた。戦争は終わりだという事を聞き意気消沈、何か全てを失った気がしました。

 しかし「ああ生きられた」という実感もわいたのでした。

 8月16日部隊は直ちに移動8月17日 富拉尓基(満州の地名)着時に武装解除、8月21日チチハル(斉斉哈爾)陸軍病院着、休息、次の命令がある迄ゆっくり休む様にとの命令があり、又、病院内から決して外には出ない様にと事で「日本は負けたので満人が何をするかわからない」何の勤務なくただ食っては寝、食っては寝、だけしていたら体が動きたくなくなり、動かなくなり、これは大変だという事になり古年兵も飯上げ(炊事場から
食事を運ぶ事)等の雑役もやる事にしたのでした。

 何の事もなく、日時は過ぎいつ日本に帰れるのか、そればっかり考えていたら、しばらくして捕虜としてソ連へ連れていかれるという事になり、これは大変だ、これから冬を迎えへるシベリアで抑留生活 零下30度以下になる土地でどう生きて行くか全く予想もつかない、ただ心配だけでありました。

 11月16日 愈々ソ連へチチハル出発列車は有蓋貨車で内部を二段作りに改造してストーブを置いた古ぼけたものでした。11月25日 満州里経由ソ連領に入る。列車は真っ白な雪原を昼夜とはず、ただ走り続けているのでした。

 東に行くのか西へ行くのか全くわからない遠くに海の様な霞んで見えると、海だ、海だ、日本に帰れると騒ぎたてるし、しかし、その海はいつになってもこない。ただ聞こえるものは「コトン・コトン」という列車と路線の継ぎ目にすりあう寂しい音だけがいつ迄も続いていました。


   私の軍歴部隊の移動年月日等は厚生省に保管されている
   私の旧軍人普通恩給請求時に厚生省より送付された履歴の写しにより記載しました。

 入 隊 昭和17年1月10日広島に集合現役兵として。
     福州ハイラル第8国境守備隊第1地区隊に入隊(681部隊)
     4月1日ハイラル第一陸軍病院(321部隊)転属。

 復 員 昭和23年12月23日舞鶴上陸。

昭和17年1月10日   二等兵……………現役兵として第8国境守備隊
                       第一地区隊に入営(集合地広島)
  昭和17年1月12日……………………………宇品出発
  昭和17年1月14日……………………………釜山出発
  昭和17年1月16日……………………………安東通過
  昭和17年1月18日……………………………ハイラル着隊
  昭和17年4月1日………………………………ハイラル弟一陸軍病院に転属
  昭和17年6月1日………………………………衛生一等兵
  昭和18年1月10日年…………………………衛生上等兵
  昭和19年1月10日……………………………衛生兵長
  昭和20年5月1日………………………………衛生下士官候補者を命ず
  昭和20年5月1日………………………………ハルピン第一陸軍病院に派遣
  昭和20年5月1日………………………………ハイラル出発
  昭和20年5月2日………………………………ハルピン着(浜江省)
  昭和20年6月30日……………………………教育終了
  昭和20年6月30日……………………………ハルピン出発
  昭和20年7月1日………………………………ハイラル着隊
  昭和20年7月1日………………………………衛生伍長
  昭和20年7月20日……………………………関東第26病院と改称
  昭和20年8月9日………………………………ハイラル出発
  昭和20年8月9日………………………………札蘭屯着
  昭和20年8月16日……………………………札蘭屯出発
  昭和20年8月17日……………………………富拉尓基着
  昭和20年8月18日……………………………富拉尓基武装解除
  昭和20年8月20日……………………………富拉尓基出発
  昭和20年8月21日……………………………チチハル着(龍江省龍江県)
  昭和20年11月16日…………………………チチハル出発
  昭和20年11月25日…………………………満州里経由入ソ
  昭和23年12月20日…………………………ナホトカ出発
  昭和23年12月23日…………………………舞鶴上陸
  昭和23年12月23日…………………………復員
  昭和24年2月……………………………………旧正月の2日に座間味島に生還

写真は立っている人の右の方が宮里正太郎さん満州での写真です。
宮里正太郎


先月子山羊の出産がありました。

座間味

うりずんです。

 先月の2月17日に子山羊の出産がありました。
 
阿佐地区の平田さんより、雌の山羊を10月の下旬ごろもらいました。

まさか妊娠しているとは知りませんでした。

そしたら17日の朝、餌の草を刈り取りして山羊小屋にいきましたら、何と子山羊がいるのではないですか。
これにはビックリしました。子山羊にしては大きくて、最初は、なかなか立てそうにもありませんでした。

3日目には元気よく親山羊のおっぱいを飲んでいました。

お母さん山羊の名前はメリ子で産まれた小山羊はメリオと名付けました。雄の山羊です。

大阪より義兄弟の子供あゆみちゃんが座間味に訪れて可愛いと言って

メリオを抱きしめていました。

姓は山羊で。名前はお母さん山羊は山羊メリ子で、子供は山羊メリオです。


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