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座間味村の旧暦の3月3日の行事の話です。

座間味
うりずんです。

 座間味村では、旧暦3月3日に当たる3月24日は朝早くから祖先にお供えするご馳走を作り、清明祭と午後からの船団パレードによる流り船行事が盛大に行われました。

 例年だとその日の干潮時に潮干狩りしながら浜下り行事も行われますが、生憎にも悪天候で海上は時化て時化のため殆どの村民が浜下り行事を中止にしました。

 清明祭は家族揃って門中墓や各自の墓にご馳走などをお供えして祖先を供養する古くから伝わる伝統行事です。
 
 午後4時頃になると座間味港沖合に船団が集結して海上パレードが行われます。

 海上パレードは島人は「流り船行事」として呼び、一年の中で最大なる行事で勇壮そのものです。

 港内に入って来た船団は船どおしを引っ付けて船上でカチャーシィーなどを踊り行事は盛り上がりを見せました。

 参加した観光客も村民共々に踊り感動していました。

 今年は海上の時化のこともあって船団は少なくて漁船、プレジャーボート二十三隻が大漁旗を掲げて島の間と港内をパレードしました。

 その後、神人と島の婦人達が集落内にある村の神々に、行事が無事終了したことを報告してその日は遅くまで賑わいを見せました。

DSCF4701.jpg

パレードの時船上では沖縄の踊りカチャーシィーなどもとびだしました僕の女房は太鼓をたたいています。
圧巻でした。

DSCF4692.jpg


座間味村の内航路事業の拡大要請がありました。

座間味
うりずんです。

 座間味村商工会青年部(宮平勇樹青年部長)渡嘉敷商工会青年部(古波蔵善之助会長では)22日午前10時座間味村役場において宮里哲座間味村長に対して座間味村内にある三島の有人島に定期的に運行している「みつしま(4.9㌧)」を渡嘉敷村までの内航路として運行を「慶良間の心は一つと」の意味を込めての定期航路事業の拡大要請を両村青年部連名で要請を手渡しました。

 現在は「みつしま」は午前二便、午後二便の座間味と阿嘉島に定期運行を行って来ました。

 観光客や村民がその運行に対して良く利用されていて喜ばれている。座間味村も渡嘉敷村も観光産業が主流だけに慶良間諸島は一つに結ぶべきとの両村民の声があり、又、お互いが交流を深める為にも必要とのことで航路事業の開設を進めて行きたいと両青年部長は延べました。

 宮里哲座間味村長は「とってもよい話です渡嘉敷村の座間味村長とも良く協議して慶良間の心は一つとの思いを伝えながら進めて行きたい」と延べました。

航路事業の要請書を手渡すところです。

航路事業要請書



今日3月26日座間味村において慰霊蔡がありました。

座間味
うりずんです。

 本日、午前10時より12時まで自由参拝による慰霊祭がありました。

 今から67年前の3月26日に座間味村に米軍の艦隊2000艦隊と186,000人の米軍が座間味村海域に押し寄せて米軍が上陸して座間味村は大変な悲劇の島となりました。

 そのことから本日慰霊蔡が行われて村民や観光客が約60人程が参拝しました。

 参拝客の中に大分県の家族が4名が座間味村の今日の日の慰霊祭に参加した親子4人が座間味村で亡くなった人達の冥福を祈っていました。

 この方は座間味村の座間味島に陸軍海上第一戦隊第二中隊長として座間味島の戦場に送り込まれて、斬り込隊として戦死を遂げた阿部直勝さん(当時23歳・大分県北海部村出身)の親族達4人で阿部叔父さんの冥福も祈っていました。


 阿部さんは第2中隊の31人の隊長で当時3月26日に米軍が夕刻に座間味島の阿佐地区の山岳に基地を構えているカ所に斬り込み隊として戦闘を始めたのでした。慶良間戦に置いては唯一の戦闘だったのでした
その時に米軍の機関銃を奪い取り米軍をを何名か射殺したのでした。
 
 この戦闘状況は米紙新聞に大きく報道されたとのことでした。

 戦争証言集
             座間味村字阿佐  宮平春子
  潔く死のう
 忘れもしません。
 昭和19年9月10日に,1500名の日本軍が座間味島にやってきました。

 私達はそれを見て、沖縄もとうとう戦争に巻き込まれて行くという不安が日に日に募っていきました。

 日本軍はこの戦争が長期戦になることを予想して、島民食料の増産や防空壕ほりにかり出すなど、私達は毎日が戦争の備えに明け暮れる日々でした。

 翌年の昭和20年3月23日、恐れていたことがついに現実のものになってしまいました。米軍による容赦ない空襲が座間味島に開始されたのです。

 空襲は翌日まで続き、更に海からは数知れずの大艦隊からの艦砲射撃を受け、その後座間味島は見る影もないほど焼け野原に変わってしまいました。

 戦前は、鬼畜米英の捕虜になって辱めを受けるより玉砕すべしと教育を受けていた私達にとって、米軍の上陸は死を意味するものでした。

 当時座間味村の助役だった兄の盛秀は産業組合壕に避難し、私は父、母、妹、兄夫婦とその3人の子供達親類約30人と別の壕に避難しておりましたが、米軍が上陸するのは時間の問題でした。

 夜になって私達が避難している壕に兄がやって来て。「米軍が上陸するのは間違いないので、玉砕するよう軍から命令があったので潔く死のう」と父に話ししていました。

 驚いた父に兄は、「親孝行出来なかったけど、あの世に行って孝行するからね」と言いながら、そばに居た3人の我が子を抱きしめ、「ごめんね、こんなに大きく育てて、軍の命令で亡くすというのはほんとうに悲しい生まない方が良かったのか、お父さんが一緒いるからね」涙を流しながら語りかけていました。

 それから、兄は父と最後の水杯を交わしました。

 住民の集合時間となった午後11時半合わせ、私達は集合場所の忠魂碑に向かって行きましたが、照明弾が上がり集合場所であった忠魂碑が艦砲を受けてしまったため、座間味区民全員での集団自決は失敗に終わり、区民は各壕での自決に入っていきました。

 私達は兄夫婦と子ども達2人が入っていた産業組合壕に入るつもりで移動したのですが、その壕は、すでに多くの区民でいっぱいとなっていたため、私達は壕へ入ることができませんでした。

 たまたま、母になついていた兄の子どもは、壕に入ることができませんでした。そのことが、私たちの運命を分けることになろうとは、思いもよりませんでした。

 兄の家族は、産業組合壕で自決して全員が亡くなり、私たちは生き延びることが出来ました。

 戦後67年が経てしまいましたが、今でもあの事を思い出すと涙がとまらず、無念の思いがこみ上げてきます。

 最近の歴史教科書の検定結果は、沖縄戦の本質を覆い隠すものであり、絶対許す訳にはいきません。

 将来を担う子ども達には、集団自決で多数の犠牲を出したという事実は事実として正しく伝え、悲惨な戦争を再び起こさないようにすることが、私たちに課せられた最大の責務と考えています。

 平和の塔です。DSC07935.jpg

 2人の男性は私の兄弟です当時高等科4年生と6年生で激戦の中を生き延びた2人でした。
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 4人は阿部直勝さんの親族達です冥福を祈っていました。

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 4人は阿部直勝さんの刻銘された碑の前での撮影です。

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  今年度19人の方達が判明されて刻銘されました。
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座間味村は67年前の今日の日(3月23日)は悲劇の島になったのでした。

座間味
うりずんです。

 今から67年前に太平洋戦争沖縄戦はアメリカ軍が始めて座間味村に上陸して悲劇の島となり大勢の住民が犠牲になったのでした。
 日本軍は民間住宅に900名が分宿されて、住民は日本軍に軍で指導を受けたことを住民に対しても徹底した指導がされたのでした。
 67年前の3月23日の今日の日にグラマラン幾の100幾ちかくが午後11時45分頃、座間味に奇襲をかけたのでした。
 アメリカ軍空襲(23日状況)
 当時、軍は離島苦のため食糧に懸念して食糧増産を企画し男女青年団並に国民学校高等科生の協力を求めて未開地の開拓のため俗称「マチャン」に行き作業開始後約一時間にして突如頭上を小型機(グラマン幾)四機が通り過ぎて隣村の渡嘉敷島に爆弾が投下されて始めて敵襲だと知り、そして見上げた上空には無数の敵の機影を発見した。

 おびただしい其の数に青年団、並びに生徒達は、只、茫然と立ち尽すのみ、我にかえって見れば座間味部落方向からは赤黒い如何にも気味悪い煙が大きなかたまりとなって大空高く舞昇って行く、途端に全身の力が抜けて頭がふらふらとなって、めまいを感じた者もいた。

 永年、住み馴れた我村は、我家は、又、家族はと其の安否を気遣うだけで其の場から動く事すら出来なかつたと言う。青年団及び生徒等の心情が察しられて断腸の思いがするのであつた。生命の危険は毛頭考えられない。

 其の内に部落全体を破壊し、見える敵機は周辺の山々に攻撃を開始した。最初に「ガソリン」を撒き散らして其の上に空襲と来たから堪らない。たちまち山全体が火の海と化して仕舞った轟々たる火の燃える音、爆発の音が入り乱れて何とも形容する事が出来ず只、我を忘れて見入るばかりであつた。

 癒々、周囲の山々が炎々と燃える頃になって始めて身の危険を感じ、慌てて深い谷間に難を避けたが極度の絶望感に1人として口をきく者もいない。

 深い物思いに時の経つのも全く解らない。其の間、猛撃を繰返した敵は1機去り2機去りついに夕刻迄には全機引揚げてしまつた。1刻も早く部落の被害の状況を知り、走る心を押えて谷間を飛び出し皆、帰途に着く。

 作業隊は家族を案じて途中、坂道を駆足で急ぎ、家族は又作業隊を案じて迎えに来る。出会ってお互いに無事を喜んだ。部落の事を聞き、家族はこちらの事を聞き、お互いに1刻も早く村全体の状況が知りたくて急坂を大急ぎ峠迄来て見下せば、これまた何とした事だ、兼ねて覚悟はして居たとは言へ今目のあたり見る所の我が村の有様はこれが今朝迄各戸とも石垣で囲まれ整然としていた我が村なのか。

 山麓近くの学校は屋根も軒も皆崩れ落ちて炎々と燃えて居る、村中は殆どの石垣が散乱し崩壊の状態だ、家は全壊炎上、大破、中破、其の被害たるや全滅、その通りである。泣いても泣けぬこの惨状に皆が失神状態になり乍らも漸く各自の屋敷に帰った。住むに家なく全住民は其の日から早速防空壕住いである。不幸にも当日住民二十三人の死者を出し、傷を受けた人の数も相当あつた。

 米軍上陸

 3月24日、土、臭も鼻をつく壕で1晩を過ごして目を覚す頃には既に敵機の来襲である、部落内の残った家々に対し、また各所に設けられた軍施設に対し物凄い攻撃を加へている。飛行機の数も昨日に劣らない。

 一体友軍機は何をしているのだろう。敵はこちらの無抵抗に対して存分に悠々と親猫が小鼠を弄ぶ様に何の不安もなく爆弾投下、機銃掃射と歯をくいしばるほどである。

 其の頃から口にこそ出さないが、誰もが今度の戦争は敗けるのではないかと思っていたであろう。心待ちに待った友軍機は遂に姿を見せずおまけに夕刻からは艦砲射撃迄加へて来たからたまらない。ああ日本もこれで終りか、もしも此の戦争で敗けたら何時もうわさに聞かされた。

 「婦女子は其の身を汚し後に刺殺され男子は道に並べられてローラーの下敷にして仕舞う」と云う通りになるのではないかと夜も眠る所の騒ぎではない。あれを思いこれを考へたらどんな事があっても勝抜いて貰わねば、勝抜かねばならん。必ず勝つ様に協力し努力しようとは婦女子でも心に誓はずには居られないのでした。

 今日は昼夜を徹しての艦砲射撃の連続であつた。恐怖の1夜を明かした今日25日も朝から艦砲と空からの攻撃に一刻も壕を出る事が出来ない。山に河に谷に砲弾、爆弾の炸裂する音は耳をつんざく程である。人の話では相当数の艦船が港内に来ていると言う事を聞かされ何とも言へぬ悪感に背筋が冷たくなった。

 夕刻に至って梅沢部隊長よりの命に依って住民は男女を問はず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老人、子供は全員村の忠魂碑の前にきて玉砕する様にとの事であつた。命令を受けた住民は揃って指定の場所に集まって来た、皆、正装に着替えて居る。

 其の時部隊長及び村長が現場に現われるのが一足早かつたら全住民は自滅を完全に遂行したかも知らない。幸か不幸か敵艦から発せられた1弾が忠魂碑の上部にある老木の枝で炸裂した。

 死は覚悟していたものの、1人が逃げ始めたので全員が、四散して仕まった。壕に帰る者、山に逃げる者、思い思いの方向に走り去ってしまったのである。そして若き者は殆ど軍の所に走って行動を共にした。

 3月26日朝敵弾の中をくぐって小高い場所に登って見渡したら、更に失望落胆させられたのは今、目の前に繰り広げられた有様は島の周囲は全部敵艦艇で十重、二十重に取巻かれて居るではないか。

 其の数のおびただしさと言うたら4,5哩も離れた各小島迄足もぬらさずに渡れる位だ。今にも物凄い数の敵兵が上陸して来る様で生きている心地はないのでした。

 午前9時頃から癒々敵方では上陸を開始した。其の援護攻撃で陸上は、まさに弾丸の雨である。

 部落にきて応戦していた日本軍も遂に抵抗する事が出来ず俗称「高月山」迄、後退の止むなきに至った。午后になって全軍番所山に集合、命令が発せられて最後の抗戦場所と定められた。そして各配置が決定されてアメリカ軍を此処で遮断すべく待ち受ける事になったが夜になっても敵は山に登って来る気配がない。しかし部落内には既に敵兵が密集しているが、報告に依って今夜中は絶対に山頂迄来る事は出来ないと知った友軍は番所山中に集って、互に郷土の話や、身の上話、写真の見合せ等、明日なき命を忘れて皆、最後の訣別をお互いが話あっている様はなんとも云いようがない情景であった。

 3月26日にも慶良間戦のことを掲載します。

住民はアメリカ軍に収容されて震えている状況でした。
小その日投降

座間味村の阿嘉島のケラマシカが増えています。

座間味
うりずんです。

 沖縄県内においては座間味村だけに生息しているケラマシカが最近において増加の傾向にあります。

 ケラマシカは戦前以前より慶良間諸島全域に生息していたとのことで、戦後は座間味村の慶留間島と屋嘉比島にしか生息していませんでした。

 ケラマシカは小型化した特有の体のつくりで特別記念物として慶留間島と屋嘉比島は地域指定になりました。

 昭和54年頃、その時までは阿嘉島には生息確認がなかったが慶留間島より泳ぎ渡り、現在ではかなり多くのケラマシカが住み付き農家で植えられた作物などの食害があり農家の皆さんは大変困ってるとのことでした。

 そのことから自分の畑を鹿が侵入しないよに網などを張り巡らしてケラマシカの食害を防いでいます。
 
 阿嘉島の山道を散策しているとケラマシカは確実に観察できるとのことでした。

 又、座間味村立阿嘉幼小中学校では、今まで校庭内に花を植えてきたが花が咲き始める頃にはケラマシカが食い荒らし手が付けられない状況下にあったが昨年の村予算により、校庭の外側にケラマシカ防護策を設置したところ今年はケラマシカが侵入出来ず校庭内には花が満開となりました。

 私も阿嘉島にいきましたらケラマシカを見つけました。小さなケラマシカでした。
小ケラマシカ

座間味村教育委員会の予算で防護策を設置しましてケラマシカの侵入を防ぎましたら校庭内の花が満開になりました。

DSC07802.jpg

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沖縄県離島住民等交通コスト負担軽減事業が始まります。

座間味
うりずんです。

 座間味村(宮里哲座間味村長)では今年度4月1日より、沖縄県離島市町村において実施される沖縄県離島住民等交通コスト負担軽減事業が座間味村においても3月16日から19日まで沖縄県離島住民割引運賃カードが住民による申請とカードが交付されました。

 これは沖縄県が実施する沖縄県離島住民等交通コスト負担軽減事業として県内の離島市町村の住民と離島出身高校生及び離島出身学生等を対象に行っています。

 初日の16日は座間味離島総合センターホールにおいて早速業務が開始されました。

 手続きは大勢の村民が殺到して混雑するのを考慮して地区別で開始、先ず座間味島の西地区より行われて会場は賑わいを見せました。

 座間味村は定期航路がフエリーざまみとクイーンざまみの二隻の村営航路で、往復運賃が約半額近くの運賃となります。

 ある村民は「運賃の半額割引制度は素晴らしい今までの運賃は少し高めな感じがしたが、これで那覇にも行きやすくなった。又。座間味村は高校が那覇での進学となるので子ども達が休みにはいつでも古里に帰ることが出来るので島の活性化の機運が高まるでしょう」と延べました。

 座間味村役場の担当職員の話では住民が決行手続きを済ましていて、21日よりも引き続き役場窓口でも行うとのことでした。

往復運賃割引金額
 クイーンざまみ
大人5,340円が3,630円
子供2,670円が1,810円

フエリーざまみ
大人3,610円が1,900円
子供1,810円が950円

割引手続き状況です。
小船割引券手続き

水中可視光通信が座間味観光に良い影響を与えそうです。

座間味
うりずんです。

 座間味村の第三セクター会社「21ざまみ」(垣花武信社長が)座間味発の海の中で光に声をのせて海中で会話ができる水中可視光通信装置が座間味の海において座間味村に訪れる海洋レジャーに一役活用されるシステムが開発されて、その製品の名称が座間味村の小中学校生徒達において募集がされました。

 その名称が慶留間中学校一年生の上原由紀子さん(13歳)が応募した「マジュン」が決定して29日の午後4時30分より座間味村村村長室において宮里哲座間味村長より感謝状と記念品の目録が贈呈されました。

 可視光通信技術を用いた水中可視可視光通信はNTTドコモやソニーなど情報通信大手企業、警視庁、海上保安庁政府機関を含む26社・団体でつくる他、関係機関が参加して開発が進められて来ました。

 今年より座間味村の観光関係での実用化を目指して装置の命名がなされました。「マジュン」とは沖縄の言葉で「ともにとか、一緒に」との意味で上原さんは海中で共にいるので命名したとのことでした。


 21ざまみの垣花社長は「座間味で生まれた海で会話が出来るこの装置は座間味の海を益々に満喫にするでしょう改めた座間味村のダイビングによるリピーターが増えるでしょう」と語りました。

 又、座間味村の観光関係業者は最近において海洋レジャーの観光客が減少気味でしたか活気的な製品の開発は座間味村に取って大変良い影響を与えるでしょうと喜びに沸いていました。

 前の右の生徒が上原さんです。後ろの中学生は全員が感謝状贈呈には参加して上原さんを祝福していました。

小マジュン



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