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3月26日座間味村で慰霊祭がありました。

座間味
うりずんです。

 座間味村(宮里哲村長)では26日午前0時より。戦争で犠牲になった御霊を奉っている平和の塔において村民が約80人程参加するなか自由参拝による慰霊蔡が行われました。

 座間味村は沖縄戦の米軍の第一歩の上陸の地として沢山の村民や軍人が犠牲になったことから、上陸した26日を座間味村の慰霊の日として制定し33回忌までは毎年慰霊祭を行ってきました。

 その後は自由参拝として御霊を奉ってきたが平成7年に役場主催の慰霊祭を行ったが、それ以降も自由参拝として行ってきました。

 戦後69年を迎えることから座間味村では戦争の話を風化させては行けないなどのことで今回も自由参拝が行われました。

 平和の塔は村民が678人軍人が379人合計1,517人の御霊が奉られています。

 作年度より始めてきた戦争中に軍事用として使われたサーチライトを平和の象徴「平和の光」として慶留間島にある戦争で使われた秘匿壕の前より、V型によって上空四千メートルを照射して阿嘉港に村民や観光客が約100人程参加して行われました。

 照射を始める前にミニライブが開催されて戦争で犠牲になった御霊に捧げるコンサートとなりました。

 昨年の照射は座間味島の平和の塔の広場で行われた。今年度で二回目、その後、平和の光が照らされて参加した人々は感動しながら世界平和の祈願を行っいました。

上空に平和のライト照射している状況です。
平和のライト


   
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69年前の26日(明日)米軍が座間味村に上陸した日でした

座間味
うりずんです。

 昭和20年3月26日に去った太平洋戦争は米軍が座間味村に上陸した日でした。

米軍の第一歩の上陸地として住民の大勢が犠牲になった日でした。

1 日本軍の座間味駐屯

 座間味村も去った太平洋戦争の沖縄戦においては、米軍の第一歩の地として大勢の方達が亡くなりました。
 昭和19年の9月10日に日本軍、1000名がこの地にやってきて住民もその時から戦争の実感がひしひしと住民に伝わり、日本軍の戦争への協力を積極的にやってきたのでした。

 (聞き取り調査による)当初の日本軍は海岸にテントを設営して戦闘への準備を進めていました。叉、日本軍の特別幹部候補生は座間味国民学校に宿泊をし、学校は日本軍がやって来た翌日から休校、座間味村の青年会館は軍の本部、座間味郵便局は司令官たちと役場三役の会議室に強要使用されたのでした。

 叉、その状況下で9月16日までには、兵隊達は民間住宅に分宿された。(分宿命令或いは指示はどこから出たのか不明)司令官達は1所帯に4人から5人の割合、それ以外の日本軍は10名から15名の割合で分宿された。一番多い所では18人も入ったようでした。

 座間味村の戦争との位置づけは座間味島と阿嘉島・渡嘉敷島は水上特攻艇(マルレ)が配備された。秘密基地だったのだ。座間味島には100艇のマルレが秘匿壕に納められていた。アメリカ軍は沖縄の南からやってきて中南部方面を攻撃するものだと日本軍は予測していたのでしょう。慶良間諸島に配属した300艇のマルレを出動させアメリカ艦艇を撃沈して、退陣させ勝利する事の計画だったのでしょう。

 日本軍が慶良間諸島に駐屯したときから、島から出る者や入る者達は念入りに調査されて秘密基地であることが外部に漏れないよう徹底した指導がなされたのでした。

 十・十空襲の始まる前に座間味島にいた日本軍は半分に減らされました。
  梅澤少佐の指揮下に入る総員760名(砂川勝美氏の記録より)
 そのような秘密基地であることから捕虜になることは絶対許されない事だったのです。

※注 意
    戦隊と守備隊は全然意味が違います。
  戦隊は敵と戦うのが戦隊、守備隊はその配属された地域をまもるのが守備
 隊です。
  慶良間諸島に配属された部隊は海上挺進第1戦隊(座間味島)
海上挺進第2戦隊(阿嘉島・慶留間島)海上挺進第3戦隊(渡嘉敷村)
座間味村の戦争との位置づけは座間味島と阿嘉島・渡嘉敷島は水上特攻艇(マルレ)が配備された。秘密基地だったのだ。座間味島には100艇のマルレが秘匿壕に納められていた。アメリカ軍は沖縄の南からやってきて中南部方面を攻撃するものだと日本軍は予測していたのでしょう。慶良間諸島に配属した300艇のマルレを出動させアメリカ艦艇を撃沈して、退陣させ勝利する事の計画だったのでしょう。

 日本軍が慶良間諸島に駐屯したときから、島から出る者や入る者達は念入りに調査されて秘密基地であることが外部に漏れないよう徹底した指導がなされたのでした。

 十・十空襲の始まる前に座間味島にいた日本軍は半分に減らされました。
  梅澤少佐の指揮下に入る総員760名(砂川勝美氏の記録より)
 そのような秘密基地であることから捕虜になることは絶対許されない事だったのです。

 戦況の進展に伴い今迄住民の胸にかすかにしかなかった最前線基地化が軍の進駐に依って実証されて覚悟を新たにした。軍民共々に勝利を確信し全住民挙げて軍に協力し、又、最後まで行動を共にする事を誓い合つたのである。そして其の日、早速、婦人会は軍将兵の接待を受持ち、青年団員は荷降作業に必要な担棒を切出しに山入りをし、夜を徹しての作業を夜明けの鶏の鳴き声を聞き乍ら行っていました。その時、住民の心は非常に張り切っていました。

 翌11日より将兵の荷降作業が始まり村内の若者達は一人残らず軍に協力作業に専念した。
9月20日迄には民家に日本軍将兵達の宿舎割当も完了したので、いよいよ将兵達は陣地の構築、防空壕の構築及弾薬倉庫の建設に着手、又、住民は超重労働も気にせず必勝を信じきっていた。住民には苦痛を感じるどころか、至って、ほのぼのとした快感さえあつたようである。

 10月10日のその日は日本軍進駐後1ヶ月目の日である、いつもの様に軍民共に作業に取り掛つたが10時頃より阿嘉島周辺りで森に飛行機が低空し機銃の音が聞えだした。

 住民は敵機の来襲と思い込み避難方を軍に申出た、軍の方では「今日は日本軍の演習だから心配はいらないから安心して作業を続行せよ」と叱られたがそれでも住民の心は落着かず大変不安な気持になっていました。

 午后1時頃、沖縄本島から避難して来た船舶に攻撃が加えられて始めて敵の襲撃を軍の方でも認識すると共に、警報が発せられ軍民始めて敵の襲撃に騒ぎ出したが其の日は空襲に於ける被害は港内停泊の船舶のみに加えられ陸上の民家と軍施設等には何の被害もなかった。

 翌日より、相変らず軍民共防備の仕事に着く、10月10日以来、全くアメリカ軍のグラマラン機の姿を見せなかったが、敵機が20年1月22日午前8時頃、突然姿を表し前回と全く同様に港内停泊の船舶だけに攻撃を加えられて5、6隻の船舶が炎上してまたたく間に水中に沈没してしまつた。陸上には何の被害も無かつた。

2 アメリカ軍空襲(23日状況)
翌日より相変らず軍民共防備の仕事に着く、10月10日以来全く其の姿を見せなかつた敵機が1月22日午前八時頃より突然姿を表し前回と全く同様に港内碇泊の船舶だけに攻撃を加えられて5、6隻の船舶が炎上してまたたく間に水中に没してしまつた。陸上には何の被害も無かつた。
いよいよやってきたのです。

 3月23日の当時、軍は離島苦のため食糧に懸念して食糧増産を企画し男女青年団並に国民学校高等科生の協力を求めて未開地の開拓のため俗称「マチャン」に行き作業開始後約一時間にして突如頭上を小型機(グラマン)四機が通り過ぎて隣村の渡嘉敷島に爆弾が投下されて始めて敵襲だと知り、そして見上げた上空には無数の敵の機影を発見した。おびただしい其の数に青年団、並びに生徒達は、只、茫然と立ち尽すのみ、我にかえって見れば座間味部落方向からは赤黒い如何にも気味悪い煙が大きなかたまりとなって大空高く舞昇って行く、途端に全身の力が抜けて頭がふらふらとなって、めまいを感じた者もいた。永年、住み馴れた我村は、我家は、又、家族はと其の安否を気遣うだけで其の場から動く事すら出来なかつたと言う。青年団及び生徒等の心情が察しられて断腸の思いがするのであつた。

 生命の危険は毛頭考えられない。
其の内に部落全体を破壊し、見える敵機は周辺の山々に攻撃を開始した。最初に「ガソリン」を撒き散らして其の上に空襲と来たから堪らない。たちまち山全体が火の海と化して仕舞った轟々たる火の燃える音、爆発の音が入り乱れて何とも形容する事が出来ず只、我を忘れて見入るばかりであつた。

 癒々、周囲の山々が炎々と燃える頃になって始めて身の危険を感じ、慌て深い谷間に難を避けたが極度の絶望感に1人として口をきく者もいない。

 深い物思いに時の経つのも全く解らない。其の間、猛撃を繰返した敵は1機去り2機去りついに夕刻迄には全機引揚げてしまつた。1刻も早く部落の被害の状況を知り、走る心を押えて谷間を飛び出し皆、帰途に着く。作業隊は家族を案じて途中、坂道を駆足で急ぎ、家族は又作業隊を案じて迎えに来る。

 出会ってお互いに無事を喜んだ。部落の事を聞き、家族はこちらの事を聞き、お互いに1刻も早く村全体の状況が知りたくて急坂を大急ぎ峠迄来て見下せば、これまた何とした事だ、兼ねて覚悟はして居たとは言へ今目のあたり見る所の我が村の有様はこれが今朝迄各戸とも石垣で囲まれ整然としていた我が村なのか。山麓近くの学校は屋根も軒も皆崩れ落ちて炎々と燃えて居る、村中は殆どの石垣が散乱し崩壊の状態だ、家は全壊炎上、大破、中破、其の被害たるや全滅、その通りである。泣いても泣けぬこの惨状に皆が失神状態になり乍らも漸く各自の屋敷に帰った。住むに家なく全住民は其の日から早速防空壕住いである。不幸にも当日住民23人の死者を出し、傷を受けた人の数も相当あつた。
  3 米軍上陸
 3月24日、土、臭も鼻をつく壕で1晩を過ごして目を覚す頃には既に敵機の来襲である、部落内の残った家々に対し、また各所に設けられた軍施設に対し物凄い攻撃を加へている。飛行機の数も昨日に劣らない。
一体友軍機は何をしているのだろう。敵はこちらの無抵抗に対して存分に悠々と親猫が小鼠を弄ぶ様に何の不安もなく爆弾投下、機銃掃射と歯をくいしばるほどである。
其の頃から口にこそ出さないが、誰もが今度の戦争は敗けるのではないかと思っていたであろう。心待ちに待った友軍機は遂に姿を見せずおまけに夕刻からは艦砲射撃迄加へて来たからたまらない。ああ日本もこれで終りか、もしも此の戦争で敗けたら何時もうわさに聞かされた「婦女子は其の身を汚し後に刺殺され男子は道に並べられてローラーの下敷にして仕舞う」と云う通りになるのではないかと夜も眠る所の騒ぎではない。あれを思いこれを考へたらどんな事があっても勝抜いて貰わねば、勝抜かねばならん。必ず勝つ様に協力し努力しようとは婦女子でも心に誓はずには居られないのであったでしょう。

 今日は昼夜を徹しての艦砲射撃の連続であつた。
恐怖の1夜を明かした今日25日も朝から艦砲と空からの攻撃に一刻も壕を出る事が出来ない。山に河に谷に砲弾、爆弾の炸裂する音は耳をつんざく程である。人の話では相当数の艦船が港内に来ていると言う事を聞かされ何とも言へぬ
悪感に背筋が冷たくなった。夕刻に至って梅沢部隊長よりの命に依って住民は男女を問はず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老人、子供は全員村の忠魂碑の前にきて玉砕する様にとの事であつた。命令を受けた住民は揃って指定の場所に集まって来た、皆、正装に着替えて居る。

 其の時部隊長及び村長が現場に現われるのが一足早かつたら全住民は自滅を完全に遂行したかも知らない。幸か不幸か敵艦から発せられた1弾が忠魂碑の上部にある老木の枝で炸裂した。死は覚悟していたものの、1人が逃げ始めたので全員が、四散して仕まった。壕に帰る者、山に逃げる者、思い思いの方向に走り去ってしまったのである。そして若き者は殆ど軍の所に走って行動を共にした。

 3月26日朝敵弾の中をくぐって小高い場所に登って見渡したら、更に失望落胆させられたのは今、目の前に繰り広げられた有様は島の周囲は全部敵艦艇で十重、二十重に取巻かれて居るではないか。其の数のおびただしさと言うたら4,5哩も離れた各小島迄足もぬらさずに渡れる位だ。今にも物凄い数の敵兵が上陸して来る様で生きている心地は。午前9時頃から癒々敵方では上陸を開始した。其の援護攻撃で陸上は、まさに弾丸の雨である。

 部落にきて応戦していた日本軍も遂に抵抗する事が出来ず俗称「高月山」迄、後退の止むなきに至った。午后になって全軍番所山に集合、命令が発せられて最後の抗戦場所と定められた。そして各配置が決定されてアメリカ軍を此処で遮断すべく待ち受ける事になったが夜になっても敵は山に登って来る気配がない。しかし部落内には既に敵兵が密集しているが、報告に依って今夜中は絶対に山頂迄来る事は出来ないと知った友軍は番所山中に集って、互に郷土の話や、身の上話、写真の見合せ等、明日なき命を忘れて皆、最後の訣別をお互いが話あっている様はなんとも云いようがない情景であった。
 4 斬込隊決行
3月26日の日が暮れて頭上には旧7、8日頃の月が雲の合間から顔をのぞかせたりしてなんとなく寂しさを一層深くした。

 其の頃、部隊長の命に依り斬込隊が組織され癒々、今夜敢行することになった。
其の命を受けた5名の女子青年団員に対し出発間際に内藤中尉より、手榴弾が渡されて「今夜の斬込で生存者は「稲崎山」に集合するからお前達は此の弾薬を指定の場所迄、運ぶ様にせよ」と言はれ、時刻を同じくして五名は目的の地に向った。運よくは再会を堅く約束して、惜しみつつ別れていった。

 部隊と分れた五名には弾薬箱の重さと来たら普通の場合で五分間持って居る事すら出来ない位だが「バンド」は肩にくい込む。道は山下の落葉に足をさらわれ、山を分け、谷をよじ登り、明け方の4時頃、遂に目的地迄登り着く事が出来たが再会の望みを期待して居た将兵達の帰還はとうとうなかった。

 それでもまだ諦めるのは早いと夜明迄待つ事にしたが、待てども、待てども将兵達に姿を見せた者は一人もいない、最早や全員玉砕したものと諦め彼等五名も敵に捕えられて、辱めうけて殺されるよりか自分自身で死んだ方がよいと協議した結果玉砕する事にした。辺りを見廻しても人影一人もいない此の山中に生きて居るのは此の五名の外はいないと思った。事実、其の日は住民も各場所にて、自決を図って種々様々の惨事がくりひろげられ自決者内川付近にあった住民の壕では、約200名の玉砕による犠牲者を出したのである。

 その惨憺たる有様は実に目を覆うものがあり、役所三役他家族の自決も当日であつた。

 一方住民の大半は島の北海岸にある俗称「ヌンルガマー・トウールーガマ」の自然壕をたよりに或は失心せんとする意識を取り戻しつつ集まって行った。
生き残りの日本軍の手記によると、26日の夕刻、海上挺身第一戦隊の第一中隊と第二中隊61名が斬り込みをかけアメリカ軍との唯一の激戦となり、アメリカ軍の機銃を奪いとり、アメリカ軍の数名の犠牲者が出た。日本軍は55名の死者を出し6名が負傷したが生還している。

  5 自然壕での生活

 只一つの頼みとするこのヌンルガマーガマ壕は入口をアダン葉に隠れた壕で奥行きが40米程もあって海岸にあるため満潮時には到達する事が出来ぬ壕で敵艦からは、わずかにアダン葉にてかくされている程度のものだがこれが住民の頼みとする唯一の壕であつた。既にそこには三百有余人の住民がぎっしりとつめ込まれていた。

 そして物音一つたたず不気味な空気が壕内をつつみ恐怖に、おののく人々、我が子の口に手拭を押しあてる親、或は生米をかじっている子供すべて敵の察知を恐れて、物音を立てず、只、時々ため息が聞えるだけである。そして此の壕には水がなく皆、着の身、着のままで食糧の持参もなく、昼は敵の看視がきびしく、わずかに暗夜の干潮時に辛うじて壕をとび出して水を求め食糧を探す程度のものであつた、中には小便を吾が子にすすらして渇をしのぐ者も居た。

 日がたつにつれて飢餓に追われ、泣きわめく我が子に手拭を口に押しあてて泣き声を止め、又、声を出す者は皆の為にしめ殺すとの事までも互に決められていた。戦争は益々、熾烈(しれつ)化とし、食糧は食いつぶし、餓死に近い状況に入っていた。其の窮状(きゅうじょう)を見兼ねて1住民の大城松三氏は自ら申し出て三百人の食糧を補給するため銃弾をくぐって壕を脱出した。脱出後四日目に彼はやつと帰って来たが食糧は持ち帰る事が出来ず。アメリカ軍の銃撃にあい重傷を受けてまもなく息を引き取つたのである。叉、先にアメリカ軍に収容された当時、阿佐区の区長をしていた上原武造氏はヌンルガマーガマにやってきて全員に投降を呼びかけにきたが壕にいた日本軍のある中尉と島の有力者の何名かに「おまえはスパイかとっとと帰れ」などと罵声を浴びせられて、上原武造氏はやむなく帰っていったが、そのまま収容先に帰ればよかったものの。阿佐にある自宅に帰り、日本軍の2名に後を追われ、自宅の仏壇前にて殺されたのである。

  5 住民の玉砕敢行
ヌンルガマーガマの壕内では食糧もなく、乳呑み子を持つ母親は乳が出ず、子供は大声にて泣きわめく、泣けば皆で死なせと言う。親子の愛情も一瞬にして消えうせてしまう有様で壕内では漸く騒動し始めた。そして脱出する者も居り、他は栄養失調で気力を失った者ばかりであつた。

 敵、上陸当時「大和馬」の壕に居た仲村梁一家と5家族の36名は米軍の上陸を知って老人達が家族を殺し自決を計り無惨な悲惨事もあつた。

 又、「内川」の壕にては米軍の進撃に依って、あわてふためいた住民に対し野村正次郎、村長・役宮平正次郎収入役の両氏と避難していた住民はパニックと化し玉砕の準備にとりかかった、助役宮里盛秀氏(兵事主任兼分会長)は軍から渡された旧式三八式銃にて米軍の一人を射殺して自決したのである。一方米軍は益々山頂迄進出したので住民は、今は施すべき術もなく遂に意を決して、全員59名天皇陛下万才を三唱して各自持参せる毒薬(アヒサン)小刀、カミソリの刃、手榴弾で午后1時頃自決を決行したのである。

其の他、住民172名も自決した。これは敵上陸進撃の際は男女を問わず生きている者は潔く自決せよとの戦隊長命令に従順に従つたのである。

   聞き取りをした内容から掲載しました
       明日は平和の塔を午前10時頃自由参拝をします。皆さん参加して永久の平和を祈願しましょう。

 昭和20年3月26日8時4分阿嘉島に米軍が上陸、その後、9時に座間味部落前に上陸して米軍と日本軍が銃撃戦となり日本軍が約50人程犠牲になったのでした。
阿嘉上陸

 マルレです。250キロの爆弾を搭載して米軍に体当たりさせ米艦隊を撃沈する予定でしたが慶良間諸島においては1隻も出動はしていませんでした。
マルレ 長さ5.8メートル 幅 1.8メートル 時速 35キロノット
マルレ (1)

自然公園指導員として委嘱されました。

座間味
うりずんです。

 慶良間諸島が国立公園に3月5日より指定されました。

その事により私も自然公園の指導員として4月1日よりの委嘱状が交付されました。

大変な光栄なことです。本当に記念すべき出来事です。

座間味村の自然を保護するために皆様のご指導をお願いします。

私の娘が屋久島に嫁いでることから先週、屋久島に行き屋久島の国立公園の調査も行ってきました。

慶良間海域は多様性海洋生物が世界に例を見ない素晴らしいものがるとの学者、研究者、カメラマン達が語っています。

そして私は世界海洋保険機構に下記の内容で宣言書を送りました。

 宣 言 書

 私達は先進国における生物多様性保全地区として、座間味村の住民は座間味村の陸上・海上とも世界に誇れるような

モデルケースな村にします。座間味村の海を守るために科学的・技術的な知識を導入して村民の相互に決断力と絆を結び

スマートアイランドな海岸にするために廃棄物投棄の禁止を徹底した啓蒙、啓発を行いクリーンな座間味村にして行きます。

又、自然環境をよくするためと海の生物を守るために電気エネルギーを得るために火力による発電システムからクリーン

な自然界のエネルギーを利用しての発電装置を整えるために関係機関や村民に呼びかけて改善させていくことを私達は宣言します。

    WOHO 殿
              宣 言 者
              沖縄県座間味村字座間味31-3

                      宮 里 芳 和
座間味村の海岸地区です。
DSCN4394.jpg

座間味島郷友会の新年会がありました。

座間味
うりずんです。

 座間味村の座間味島郷友会(中村盛彦会長)が22日那覇市内のホテルにおいて新年会を郷友会員が約80人ほど参加して賑やかに開催されました。

 座間味島は3カ字区より成り立っていて年に一度に開催されるとあって郷友会の皆様は、この日を楽しみしていました。

 又、ふるさと座間味村からは宮里哲座間味村長や役場の管理職の4人と区長達他、7人が招聘されて開催されました。

 今年度の新年会は古里座間味村が国立公園に指定されることもあって、その祝賀会も兼ねて盛大に行われました。

 席上、宮里村長は年始の挨拶を行って座間味村の国立公園の指定について経緯や内容説明を行い。

 会場より盛大な拍手が沸き起こりました。

 「わが村は全体的な自然と海洋生物が世界に例を見ないものがありこの国立公園の指定は大変な座間味村の環境を守るものがあります。

 又、観光地座間味村としても大きな発展につながり村民に最大なる産業として発展するでしょう」と胸を膨らませて述べました。

 その後、お互いの懇親会に入り島の状況などを語り合い、そのひと時を楽しく過していました。

郷友会の役員の皆様です。真ん中が郷友会長の中村盛彦さんです。右は宮里哲座間味村長です。
小郷友会新年会

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