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座間味村内の教職員全員での研修会がありました。

座間味
うりずんです。

  座間味村内にある座間味村立幼小中学校の3校の職員達が21日の午前中より座間味島内にある公共施設や座間味村が取り組んでいる政治制作や行政施策について40名の学校職員が研修会となり、お互いの親睦交流も図りながら行われました。

 座間味村は離島が3島あるため日頃は顔を合わすことが無いだけに毎年夏休みに行われるこの研修会は職員にとっては大変な成果を残すので人気があります。        

 まずは座間味島内にある淡水化水道設備を見て回り、なぜ座間味村に淡水化施設が必要なのか役場職員が説明しました。
又、職員よりもいろいろと質問も飛び通い意義深い成果を残しました。

  その後、公共施設や座間味村の自然環境なども視察して。午後より座間味幼小中学校の体育館において中村光男座間味村教育長が職員達に対して「服務について」と題して訓示を述べました。

中村教育長は「離島市町村であるためお互いがしっかりと連携をとりながら子供達の教育に頑張ってほしい」と語りました。

 座間味の学校は座間味島の座間味村立座間味幼小中学校、阿嘉島の座間味村立阿嘉幼小中学校、座間味村立慶留間小中学校の3校で慶留間幼稚園は平成24年より休園で全校児童生徒数は132人となっている。
 
座間味村の淡水化装置の水道施設の説明を受けている状況です。
DSCF3805.jpg
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座間味村で大里南小学校の生徒達が座間味村を訪れました。

座間味
うりずんです。

南城市立大里南小学校(比嘉良雄校長)では座間味村の座間味小学校とバスケットの交流試合や座間味村の海域において海洋体験学習などに参加して離島である座間味村の児童達との交流を深め、自然も満喫していた。

 大里南小学校のバスケット部員は48人で今回参加した父兄と中学生達のアドバイザーは合計で80人が参加した。

一行は18日の午前の座間味村営船のフェリーざまみで座間味島入りして午後より早速、座間味小学校児童達と座間味小学校体育館内においてバスケットの練習と試合も開始された

両校の児童達は熱戦が展開されて交流を深めていました。

昨年度より離島村の座間味村で夏休み期間中開始されたが今年度も計画どおり実施された。「合宿での訓練は大変な成果を見せているので毎年この時期に行う計画との」東江彰吾(33歳)監督は語りました。
 
試合前の南城市立大里南小学校の皆さんです。
DSCF3756.jpg

 帰るときの集合写真です。
DSCF3799.jpg



座間味村よりハイタイです。

座間味
うりずんです。

 座間味村よりハイタイです。

  南城市立大里中学校
  3年生(14歳)
    宇久田姫香さん   左
  南城市立大里中学校
1年生(12歳)    
    手登根碧唯さん   中
  南城市立大里中学校
  1年生(13歳)
恩納莉子さん    右

南城市立大里小学校生徒達のバスケット部の四十八人とアドバイザーの立場で18日に座間味島入りした3人、「私たちも小学校の時はバスケット部にいました。

 とにかく後輩達が強くなるためにアドバイスをして支援のためにやってきました。

 座間味小学校の生徒達も良く動きが速いですね。2日間の日程ではありましたが児童達が海洋研修も体験して大変思い出深い研修になったとことでしょう。」

 と語った。3人は中学生になってもバスケット部で宇久田さんは今年度、高校に入学するために受験勉強ためにバスケット部をやめたたとのことでした。

    大里南小学校頑張れ。  座間味小学校も頑張るよ。
DSCF3795.jpg

  
      座間味村通信員
    宮里芳和

座間味村の座間味島の赤碕山を紹介します。

座間味
うりずんです。

 邪馬台国卑弥呼の時代のご紹介をします。

赤崎嶽と地名が日本全国にありますが。言い伝えは邪馬大国の一族が険しい山に登山してそこから島々の状況を知るために登山したと言い伝えがあります。

 まさしく座間味村の赤碕山は大変険しい山頂で(写真)卑弥呼の一族は座間味にはとどまらず最終的には久高島に住み着き狩猟民族から農耕民族と変身したと言い伝えがあります。

 座間味村には古座間味地区に狩猟民族が四千年前から人が住んでいたとのことだ。

古座間味地区は今は人は住んでいませんが日本でも最大規模の貝塚があります。専門家はもしかして日本Ⅰかもと語ってくれました。

  二つの山の一帯が赤碕山の一帯です。
DSCF3743.jpg

 近くからの赤碕山の撮影です。
DSCF3740.jpg

座間味村の戦争の話です。

座間味
うりずんなです。

 久々に座間味村の戦争の話をします。
尚、聞き取りによる物語です。

 沖縄の慰霊の日は6月23日です。

 去った太平洋戦争は本土決戦の時間稼ぎのために沖縄は捨て石にされたのでした。
米軍が上陸した座間味村では、追いつめられて肉親同士が殺しあったのでした。「鬼畜米英」鬼より怖いアメリカ軍・イギリス軍と住民に教えられて、捕虜になると女性は辱めを受けて耳を切り取られて、股裂きにされ殺される。男性はローラで下敷きにされて殺されるといった事が信じ込まされていた。それよりは自らの手で愛する者を殺すことが慰めという心理状態においやられたのでした。

日米安全保障条約・安保条約)
1960(昭和35)年1月19日 ワシントンで署名
1960年6月19日 国会承認
1960年6月23日 批准書交換、効力発生
1960(昭和35)年6月23日 条約第6  
6月23日は沖縄戦において組織的な戦争が終了した日でもあると云われています。

座間味島の戦争の話
 今から70年前にこの座間味村に大変な悲劇な事がおこったのでした。
 座間味村はずーっと昔から豊な島で活気あふれた島でしたが、日本とアメリカの戦争が始まり、アメリカ軍が沢山の艦船で18万6千人のアメリカ人が座間味島・阿嘉島・慶留間島を取り囲み一斉に座間味村に艦砲射撃をしたのでした。

 昭和20年3月23日より艦載機が座間味の家を攻撃して島の人達は大変な恐怖感になったのでした。座間味島には1000名の日本の兵隊さん達がいたためアメリカ軍はそれを知って座間味村を攻撃したのでした。
 間違った日本国の教育により、アメリカ軍が大勢座間味の海域にやって来たときにアメリカ軍に殺されると思いアメリカ軍に殺されるよりは自分で死のうと考えたのでした。

 昭和20年の3月25日の夜10時頃、座間味村役場の戦争の係官より「軍より玉砕命令(自分で死ぬこと)が出ましたので住民は正装してあるいわ正月の着物を付けて忠魂碑の前に集まって下さい」と各住民の潜んでいた防空壕に伝えられたのでした。その時、住民は全ての人達が死ぬ事を覚悟で忠魂碑の前に集まって来たのでした。夜の11時頃住民が集まりかけた時でした。

 今まで夜の艦砲射撃はなかったのですが、その日にかぎって艦船から打たれた爆弾が忠魂碑の上の老木の枝で5・6発が炸裂したのでした。ここでは集団による玉砕が出来ないと何名かの長老が集まり、すでに軍より玉砕命令が出ているので各防空壕で自分たちで死のうと話あいをして、そこに集まった住民は解散して各自の壕に戻ったのでした。村長と役場職員が来ないうちにその場にいた住民は解散していったのでした。役場の人達が忠魂碑に来ていたら全住民が死んでいたのでしょう。

 3月26日の午前9時頃大勢のアメリカ軍が座間味の海岸と古座間味ビーチに同時に上陸して住民はアメリカ軍に捕虜なることを恐れて各家庭の防空壕で家族の殺し合いが始まったのでした。

 役場職員と産業組合職員の家族が潜んでいた産業組合壕においては農薬を飲み、カミソリでノドを切り死んでいったと話を聞いています。

 玉城清助校長先生がいた学校職員壕においては住民を含む20名の方達が潜んでいたのでしたが、米軍が上陸するのを見た玉城清助校長先生は防空壕にいる全員に天皇陛下万歳三唱をして手榴弾を炸裂させたのでした。その時に犠牲になった内間トシ子先生が即死・宮平ハルさん重傷、後で死んだのでした。校長先生はもう皆さんは思い思いで行動をして下さい。けして座間味村の日本軍の事と座間味が秘密基地であることを絶対喋ってはいけませんよ、強く、強く壕の人達に訴えたのでした。その後から校長先生とおくさんは向かいあって、おくさんの首に手をあてカミソリで首をきったのでした。奥さんはその場に倒れて校長先生自分のノドを切断して頸動脈より血が噴き出して側にいた小学校5年生の宮城恒彦さんと4年生の宮里哲夫さんの顔の頬に血を浴びて二人は大変な恐怖感になったとのことでした。

 今、座間味区に昨年まで住んでいた宮平輝重おじいの話をします。(93歳で他界)
輝重おじいは当時23才で防衛隊(島を守る兵隊)として座間味で日本軍と共に戦争の準備をしていました。米軍が上陸した26日家族の安否を気遣ってその防空壕に行こうとした時でした、座間味区の西の山頂より米軍の数名が輝重おじいを銃で射撃されて左足に2発の弾痕と1発のアゴ上の歯に狙撃され足を引きずりながら逃げって行ったのでした。その時はアメリカの兵隊は後を追って来なかったとのことでした。それでも内川山に向かって逃避行していたら、途中、輝重・輝重と叫んでいる人がいて、その人の側に行って話を聞いたら、私は今、家族6人を殺してきた。最初は全員で死のうと計画しアヒサン(農薬)を飲んだのだが量が少なかったのでしょう。全員死ねず震えていただけだったので鍬で6人とも殴り殺したのだ。私は6人が本当に死んだか確認するために火で焼いたが動かないので死んだのを確認したのだ、自分はこのように薬で体が震えて自分では死にきれない。だから輝重おれを殺してくれーと絶句していたときに先程、輝重おじいを狙撃したアメリカ軍が近づいて来たので輝重おじいはとっさに首にロープを巻き付けて死んだふりをしたのだ。アメリカ兵は輝重おじいを死んだもの勘違いして先程の死のうとした人をアメリカ軍の収容先に連れていかれ、その人は介護されて生き返ったとのことでした。その人は家族を殺害したことで座間味には二度と戻ることはなかったのでした。

 座間味島内では200名近くの住民が当時の間違った教育による戦争突入で座間味村の人達が集団自決という大変な悲劇の島となったのでした

 平和は一人一人のお互いの思いやりから始まります。お互いの思いやりは仲間を増やし交流の輪を広めます。ひいては地域の輪を広め社会の輪を広めて平和に繋げたいものです。此の小さな座間味村より平和の発信としていきたいものです。2度とはあっては行けない戦争お互いの心と心を大事にして座間味村より平和の発信地にしていきましょう。

 戦争は米軍の上陸は座間味村の阿嘉島より開始したのでした。DSC01408.jpg

  南西諸島に犠牲になった米兵の墓を座間味小学校のグラウンドに設置して埋葬したのでした。沖縄戦が終了してアメリカ本国に移動したのでした。
DSC01331.jpg

 慶留間島の小鳩の塔です。戦争で犠牲になった少年達を奉った塔です。
DSC00259.jpg

 座間味島の通信隊の壕です。まだ遺留品が残っています。

通信隊壕 (2)



慶留間小中学校で平和集会がありました。

座間味
うのずんです。

 座間味村立慶留間小中学校(玉城典男校長)ではお月ふう日午後あ時半より、慶留間地区の高台にある去った戦争犠牲になった人々の御霊を奉った「小鳩の塔」において。御霊の冥福を祈るために平和集会が児童生徒達と職員全員で行われました。

慶留間小中学校は児童生徒数が14人、職員が13人、ミニ校の集会は参加した児童生徒達によってお菓子の盛り合わせと花束が送られました。

 その後に全員により犠牲者への追悼の言葉と平和への作文も朗読されて焼香も行われました。

 ある生徒は「戦争は本当に怖かったでしょう私たちは世界が平和になるように頑張ります」と誓いの言葉を述べて、全員で「月桃の歌」を合唱して集会が終了しました。          

 慶留間島では戦争への犠牲者が国内外で89人でそのうちの慶留間島内では集団自決者が六十三人、児童生徒の自決者は 14人となっています。その14人の御霊を奉っているのが「小鳩の塔」で戦後、塔を建立して毎年この時期に平和集会を行ってきました。

小鳩の塔前で御霊に対して世界平和の宣言をしている状況です。
DSCF3541.jpg

全員での集会です。
DSCF3548.jpg

ラムサール条約の変更認定がありました。

座間味村
うりずんです。

 座間味村が昨年の3月5日に慶良間諸島が全域において国立公園に指定されたことから国内外からの観光客が増加して村民は大変な喜びであるが更に喜びに湧いているのがラムサール登録湿地が慶良間全域に先月の28日に認定されて、その認定書が6月19日午前11時に座間味村役場村長室において環境省の那覇自然環境事務所植田明浩所長より宮里哲座間味村長に贈られました。

 今までは座間味村内にある座間味島と阿嘉島の中間にある無人島、阿慶名敷島・嘉比島・イジャカジャ島の島の湿地帯の353ヘクタールより8290ヘクタール慶良間諸島全域が認定された。日本国内でも3番目の大きさで。「その経済効果は大きな変動が出るだろうそのことから世界の人達にも認められて世界遺産登録も夢ではないと思う」と宮里座間味村長は語りました。

認定書の交付状況です。
DSCF3485.jpg



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