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座間味村の戦争の話です。

座間味
うりずんなです。

 久々に座間味村の戦争の話をします。
尚、聞き取りによる物語です。

 沖縄の慰霊の日は6月23日です。

 去った太平洋戦争は本土決戦の時間稼ぎのために沖縄は捨て石にされたのでした。
米軍が上陸した座間味村では、追いつめられて肉親同士が殺しあったのでした。「鬼畜米英」鬼より怖いアメリカ軍・イギリス軍と住民に教えられて、捕虜になると女性は辱めを受けて耳を切り取られて、股裂きにされ殺される。男性はローラで下敷きにされて殺されるといった事が信じ込まされていた。それよりは自らの手で愛する者を殺すことが慰めという心理状態においやられたのでした。

日米安全保障条約・安保条約)
1960(昭和35)年1月19日 ワシントンで署名
1960年6月19日 国会承認
1960年6月23日 批准書交換、効力発生
1960(昭和35)年6月23日 条約第6  
6月23日は沖縄戦において組織的な戦争が終了した日でもあると云われています。

座間味島の戦争の話
 今から70年前にこの座間味村に大変な悲劇な事がおこったのでした。
 座間味村はずーっと昔から豊な島で活気あふれた島でしたが、日本とアメリカの戦争が始まり、アメリカ軍が沢山の艦船で18万6千人のアメリカ人が座間味島・阿嘉島・慶留間島を取り囲み一斉に座間味村に艦砲射撃をしたのでした。

 昭和20年3月23日より艦載機が座間味の家を攻撃して島の人達は大変な恐怖感になったのでした。座間味島には1000名の日本の兵隊さん達がいたためアメリカ軍はそれを知って座間味村を攻撃したのでした。
 間違った日本国の教育により、アメリカ軍が大勢座間味の海域にやって来たときにアメリカ軍に殺されると思いアメリカ軍に殺されるよりは自分で死のうと考えたのでした。

 昭和20年の3月25日の夜10時頃、座間味村役場の戦争の係官より「軍より玉砕命令(自分で死ぬこと)が出ましたので住民は正装してあるいわ正月の着物を付けて忠魂碑の前に集まって下さい」と各住民の潜んでいた防空壕に伝えられたのでした。その時、住民は全ての人達が死ぬ事を覚悟で忠魂碑の前に集まって来たのでした。夜の11時頃住民が集まりかけた時でした。

 今まで夜の艦砲射撃はなかったのですが、その日にかぎって艦船から打たれた爆弾が忠魂碑の上の老木の枝で5・6発が炸裂したのでした。ここでは集団による玉砕が出来ないと何名かの長老が集まり、すでに軍より玉砕命令が出ているので各防空壕で自分たちで死のうと話あいをして、そこに集まった住民は解散して各自の壕に戻ったのでした。村長と役場職員が来ないうちにその場にいた住民は解散していったのでした。役場の人達が忠魂碑に来ていたら全住民が死んでいたのでしょう。

 3月26日の午前9時頃大勢のアメリカ軍が座間味の海岸と古座間味ビーチに同時に上陸して住民はアメリカ軍に捕虜なることを恐れて各家庭の防空壕で家族の殺し合いが始まったのでした。

 役場職員と産業組合職員の家族が潜んでいた産業組合壕においては農薬を飲み、カミソリでノドを切り死んでいったと話を聞いています。

 玉城清助校長先生がいた学校職員壕においては住民を含む20名の方達が潜んでいたのでしたが、米軍が上陸するのを見た玉城清助校長先生は防空壕にいる全員に天皇陛下万歳三唱をして手榴弾を炸裂させたのでした。その時に犠牲になった内間トシ子先生が即死・宮平ハルさん重傷、後で死んだのでした。校長先生はもう皆さんは思い思いで行動をして下さい。けして座間味村の日本軍の事と座間味が秘密基地であることを絶対喋ってはいけませんよ、強く、強く壕の人達に訴えたのでした。その後から校長先生とおくさんは向かいあって、おくさんの首に手をあてカミソリで首をきったのでした。奥さんはその場に倒れて校長先生自分のノドを切断して頸動脈より血が噴き出して側にいた小学校5年生の宮城恒彦さんと4年生の宮里哲夫さんの顔の頬に血を浴びて二人は大変な恐怖感になったとのことでした。

 今、座間味区に昨年まで住んでいた宮平輝重おじいの話をします。(93歳で他界)
輝重おじいは当時23才で防衛隊(島を守る兵隊)として座間味で日本軍と共に戦争の準備をしていました。米軍が上陸した26日家族の安否を気遣ってその防空壕に行こうとした時でした、座間味区の西の山頂より米軍の数名が輝重おじいを銃で射撃されて左足に2発の弾痕と1発のアゴ上の歯に狙撃され足を引きずりながら逃げって行ったのでした。その時はアメリカの兵隊は後を追って来なかったとのことでした。それでも内川山に向かって逃避行していたら、途中、輝重・輝重と叫んでいる人がいて、その人の側に行って話を聞いたら、私は今、家族6人を殺してきた。最初は全員で死のうと計画しアヒサン(農薬)を飲んだのだが量が少なかったのでしょう。全員死ねず震えていただけだったので鍬で6人とも殴り殺したのだ。私は6人が本当に死んだか確認するために火で焼いたが動かないので死んだのを確認したのだ、自分はこのように薬で体が震えて自分では死にきれない。だから輝重おれを殺してくれーと絶句していたときに先程、輝重おじいを狙撃したアメリカ軍が近づいて来たので輝重おじいはとっさに首にロープを巻き付けて死んだふりをしたのだ。アメリカ兵は輝重おじいを死んだもの勘違いして先程の死のうとした人をアメリカ軍の収容先に連れていかれ、その人は介護されて生き返ったとのことでした。その人は家族を殺害したことで座間味には二度と戻ることはなかったのでした。

 座間味島内では200名近くの住民が当時の間違った教育による戦争突入で座間味村の人達が集団自決という大変な悲劇の島となったのでした

 平和は一人一人のお互いの思いやりから始まります。お互いの思いやりは仲間を増やし交流の輪を広めます。ひいては地域の輪を広め社会の輪を広めて平和に繋げたいものです。此の小さな座間味村より平和の発信としていきたいものです。2度とはあっては行けない戦争お互いの心と心を大事にして座間味村より平和の発信地にしていきましょう。

 戦争は米軍の上陸は座間味村の阿嘉島より開始したのでした。DSC01408.jpg

  南西諸島に犠牲になった米兵の墓を座間味小学校のグラウンドに設置して埋葬したのでした。沖縄戦が終了してアメリカ本国に移動したのでした。
DSC01331.jpg

 慶留間島の小鳩の塔です。戦争で犠牲になった少年達を奉った塔です。
DSC00259.jpg

 座間味島の通信隊の壕です。まだ遺留品が残っています。

通信隊壕 (2)



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