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久々に慶良間戦争の話をします。

座間味
うりずんです。

 久々に座間味村の戦争の話をします。

沖縄の慰霊の日は6月23日です。

去った太平洋戦争は本土決戦の時間稼ぎのために沖縄は捨て石にされたのでした。

米軍が上陸した座間味村では、追いつめられて肉親同士が殺しあったのでした。「鬼畜米英」鬼より怖いアメリカ軍・イギリス軍、絶対捕虜にはなるなと住民に強く教えられたのでした。捕虜になると女性は辱めを受けて耳を切り取られて、股裂きにされ殺される。男性はローラで下敷きにされて殺されるといった事が信じ込まされていたのでした。それよりは自らの手で愛する者を殺すことが慰めという心理状態においやられたのでした。



日米安全保障条約・安保条約)

1960(昭和35)年1月19日 ワシントンで署名
1960年6月19日国会承認
1960年6月23日 批准書交換、効力発生
1960(昭和35)年6月23日 条約第6  

6月23日は沖縄戦において組織的な戦争が終了した日でもあると云われています。

座間味島の戦争の話

 今から70年前にこの座間味村に大変な悲劇な事がおこったのでした。

 座間味村はずーっと昔から豊な島で活気あふれた島でしたが、日本とアメリカの戦争が始まり、アメリカ軍が沢山の艦船で18万3千人のアメリカ人が座間味島・阿嘉島・慶留間島を取り囲み一斉に座間味村に艦砲射撃をしたのでした。

 昭和20年3月23日より艦載機が座間味の家を攻撃して島の人達は大変な恐怖感になったのでした。座間味島には1000名の日本の兵隊さん達がいたためアメリカ軍はそれを知って座間味村を攻撃したのでした。

 間違った日本国の教育により、アメリカ軍が大勢座間味の海域にやって来たときにアメリカ軍に殺されると思いアメリカ軍に殺されるよりは自分で死のうと考えたのでした。

 昭和20年の3月25日の夜10時頃、座間味村役場の戦争の係官より「軍より玉砕命令(自分で死ぬこと)が出ましたので住民は正装してあるいわ正月の着物を付けて忠魂碑の前に集まって下さい」と各住民の潜んでいた防空壕に伝えられたのでした。その時、住民は全ての人達が死ぬ事を覚悟で忠魂碑の前に集まって来たのでした。夜の11時頃住民が集まりかけた時でした。今まで夜の艦砲射撃はなかったのですが、その日にかぎって艦船から打たれた爆弾が忠魂碑の上の老木の枝で5・6発が炸裂したのでした。ここでは集団による玉砕が出来ないと何名かの長老が集まり、すでに軍より玉砕命令が出ているので各防空壕で自分たちで死のうと話あいをして、そこに集まった住民は解散して各自の壕に戻ったのでした。村長と役場職員が来ないうちにその場にいた住民は解散していったのでした。役場の人達が忠魂碑に来ていたら全住民が死んでいたのでしょう。

 3月26日の午前9時頃大勢のアメリカ軍が座間味の海岸と古座間味ビーチに同時に上陸して住民はアメリカ軍に捕虜なることを恐れて各家庭の防空壕で家族の殺し合いが始まったのでした。

 役場職員と産業組合職員の家族が潜んでいた産業組合壕においては農薬を飲み、カミソリでノドを切り死んでいったと話を聞いています。

玉城清助校長先生がいた学校職員壕においては住民を含む20名の方達が潜んでいたのでしたが、米軍が上陸するのを見た玉城清助校長先生は防空壕にいる全員に天皇陛下万歳三唱をして手榴弾を炸裂させたのでした。その時に犠牲になった内間トシ子先生が即死・宮平ハルさん重傷、後で死んだのでした。校長先生はもう皆さんは思い思いで行動をして下さい。けして座間味村の日本軍の事と座間味が秘密基地であることを絶対喋ってはいけませんよ、強く、強く壕の人達に訴えたのでした。その後から校長先生とおくさんは向かいあって、おくさんの首に手をあてカミソリで首をきったのでした。奥さんはその場に倒れて校長先生自分のノドを切断して頸動脈より血が噴き出して側にいた小学校5年生の少年と4年生の少年の顔の頬に血を浴びて二人は大変な恐怖感になったとのことでした。

 昨年度まで元気だった義父の宮平輝重おじいの話をします。

輝重おじいは当時23才で防衛隊(島を守る兵隊)として座間味で日本軍と共に戦争の準備をしていました。米軍が上陸した26日家族の安否を気遣ってその防空壕に行こうした時でした、座間味区の西の山頂より米軍の数名が輝重おじいを銃で射撃されて左足に2発の弾痕と1発のアゴ上の歯に狙撃され足を引きずりながら逃げって行ったのでした。その時はアメリカの兵隊は後を追って来なかったとのことでした。それでも内川山に向かって逃避行していたら、途中、輝重・輝重と叫んでいる人がいて、その人の側に行って話を聞いたら、私は今、家族6人を殺してきた。最初は全員で死のうと計画しアヒサン(農薬)を飲んだのだが量が少なかったのでしょう。全員死ねず震えていただけだったので鍬で6人とも殴り殺したのだ。私は6人が本当に死んだか確認するために火で焼いたが動かないので死んだのを確認したのだ、自分はこのように薬で体が震えて自分では死にきれない。だから輝重おれを殺してくれーと絶句していたときに先程、輝重おじいを狙撃したアメリカ軍が近づいて来たので輝重おじいはとっさに首にロープを巻き付けて死んだふりをしたのだ。アメリカ兵は輝重おじいを死んだもの勘違いして先程の死のうとした人をアメリカ軍の収容先に連れていかれ、その人は介護されて生き返ったとのことでした。その人は家族を殺害したことで座間味には二度と戻ることはなかったのでした。

 座間味島内では200名近くの住民が当時の間違った教育による戦争突入で座間味村の人達が集団自決という大変な悲劇の島となったのでした。

 平和は一人一人のお互いの思いやりから始まります。お互いの思いやりは仲間を増やし交流の輪を広めます。ひいては地域の輪を広め社会の輪を広めて平和に繋げたいものです。此の小さな座間味村より平和の発信としていきたいものです。2度とはあっては行けない戦争お互いの心と心を大事にして座間味村より平和の発信地にしていきましょう。

座間味村の高月山を陣地にして砲撃をしている状況です。その後ろの慶良間海峡ではアメリカ軍の艦船が沢山います。
凄いですね。

DSCF4105.jpg

銃撃を行うようとしています。
DSCF4106.jpg

 9 戦争証言集

             座間味村字阿佐  宮平春子

  潔く死のう

 忘れもしません。

 昭和19年9月10日に,1500名の日本軍が座間味島にやってきました。

 私達はそれを見て、沖縄もとうとう戦争に巻き込まれて行くという不安が日に日に募っていきました。

日本軍はこの戦争が長期戦になることを予想して、島民食料の増産や防空壕ほりにかり出すなど、私達は毎日が戦争の備えに明け暮れる日々でした。

 翌年の昭和20年3月23日、恐れていたことがついに現実のものになってしまいました。米軍による容赦ない空襲が座間味島に開始されたのです。

 空襲は翌日まで続き、更に海からは数知れずの大艦隊からの艦砲射撃を受け、その後座間味島は見る影もないほど焼け野原に変わってしまいました。

 戦前は、鬼畜米英の捕虜になって辱めを受けるより玉砕すべしと教育を受けていた私達にとって、米軍の上陸は死を意味するものでした。

 当時座間味村の助役だった兄の盛秀は産業組合壕に避難し、私は父、母、妹、兄夫婦とその3人の子供達親類約30人と別の壕に避難しておりましたが、米軍が上陸するのは時間の問題でした。

 夜になって私達が避難している壕に兄がやって来て。「米軍が上陸するのは間違いないので、玉砕するよう軍から命令があったので潔く死のう」と父に話ししていました。

 驚いた父に兄は、「親孝行出来なかったけど、あの世に行って孝行するからね」と言いながら、そばに居た3人の我が子を抱きしめ、「ごめんね、こんなに大きく育てて、軍の命令で亡くすというのはほんとうに悲しい生まない方が良かったのか、お父さんが一緒いるからね」涙を流しながら語りかけていました。

 それから、兄は父と最後の水杯を交わしました。

 住民の集合時間となった午後11時半合わせ、私達は集合場所の忠魂碑に向かって行きましたが、照明弾が上がり集合場所であった忠魂碑が艦砲を受けてしまったため、座間味区民全員での集団自決は失敗に終わり、区民は各壕での自決に入っていきました。

 私達は兄夫婦と子ども達2人が入っていた産業組合壕に入るつもりで移動したのですが、その壕は、すでに多くの区民でいっぱいとなっていたため、私達は壕へ入ることができませんでした。

 たまたま、母になついていた兄の子どもは、壕に入ることができませんでした。そのことが、私たちの運命を分けることになろうとは、思いもよりませんでした。

 兄の家族は、産業組合壕で自決して全員が亡くなり、私たちは生き延びることが出来ました。

 戦後62年が経てしまいましたが、今でもあの事を思い出すと涙がとまらず、無念の思いがこみ上げてきます。

 今回の歴史教科書の検定結果は、沖縄戦の本質を覆い隠すものであり、絶対許す訳にはいきません。

 将来を担う子ども達には、集団自決で多数の犠牲を出したという事実は事実として正しく伝え、悲惨な戦争を再び起こさないようにすることが、私たちに課せられた最大の責務と考えています。



このくらいの毒の量では一家は玉砕できないよ

上洲幸子さん 屋号 アガタナイガー 当時 23歳 大正11年6月17日生



 太平洋戦争は昭和16年12月8日、日本軍のハワイ真珠湾攻撃によって始まり、当時の日本はアメリカ・イギリス・オーストラリア・インド・中国の国々と闘っていました。戦局は次第に悪化しアメリカ軍はパラオ諸島、フイリッピンと日本にじりじりと迫ってきました。そうした戦雲たなびく中で、沖縄も戦争に巻き込まれるのは必至との予測をたて、沖縄全体戦争の準備態勢に入っていきました。座間味村も特攻艇を配備された秘密基地であるが故に住民に座間味村駐屯の日本軍の事が外部に漏れないように徹底した教育がされたわけです。

 私は当時23歳で、戦争が始まる前は那覇にいました。その時、夫は満州へと出兵して一度は復員してきたのですが、復員後は飛行場建設の土砂運搬の監督をしていました。しばらくして八重山へ徴兵されたのです。那覇では間借りの生活をしていたのですが、夫は徴兵されたし、一人で住んでもしょうがないと思い島への引っ越しの準備をしていたわけ、そうしたら、その時に、那覇は十十空襲が始まり、那覇は壊滅状態となり、自分が住んでいる家も焼かれてしまいました。それから座間味島に戻って来たのです。その時は那覇にいた学生達や働いている人達、島の人達の大勢が港にきていました。島に帰ってきたのが十十空襲が終わった直後でした。

 島に戻ったら、すでに各家庭において防空壕は掘られていて、住民は防空壕と自分の家と行き来し生活をしていました。その時、私は防空壕にはあんまりいきませんでした。時たま空襲がありましたが、家の周辺で隠れていました。裏山の中腹には私達家族の防空壕がありましたが、私は自宅で食事をつくり妹が年寄り達のいる壕に運んでいたのです。その時の私達の家の家族は後ろの裏座に住み、兵隊さん達は前の座敷に6人が寝泊まりしていました。兵隊達の食事はハンゴで支給されていましたが、若い兵隊達は、その量では、たりなかったようで、私達は芋をかなり植えていましたので芋を炊くときには兵隊達の分まで焚きだして提供しました。

その時の私達の家族は、父が戦争勃発する前に軍属として徴収されて那覇港よりパラオに船団でいきました。父は航海術がうまいため船団の先頭を水先案内人として誘導しパラオに行ったことを聞きました。父はパラオでは日本軍の食料提供のために鰹を捕り日本軍に協力参加したのです。戦後無事生還したのです。戦後しばらくして高血圧の病気でなくなりました。長男は島にいて防衛隊として島にいましたが、戦争は生き抜きましたが戦後でなくなったのです。次男は16歳の時に海軍志願兵として海軍に入営(入隊)して戦後戦いぬいて無事生還したのでした。弟は那覇の水産高等科に在学中に十十空襲にあい、私と一緒に島に戻ってきたのですが、直ぐ防衛隊として勤務を命じられたのです。勤務内容は特攻艇の整備補助員としての役目と出撃するときに特攻艇を海上に押し出す役目を命じられていたのです。25日の米軍の一斉の艦砲射撃に特攻艇の出撃のために古座間味にいったのですが、あまりにも激しい艦砲射撃で、その場にはおれず山道より逃げる途中に艦砲により即死したのです。

 妹は那覇で看護婦をしていましたが、勤務していた病院が十十空襲で焼かれたので島に戻り、島の軍の看護婦として衛生兵とともに医療にたずさわり、戦闘中の激戦の中も日本軍魂さを打ち込まれたような働きぶりだったそうです。戦後那覇の病院に勤務していました。

 昭和20年の3月23日の空襲は私達の壕は高月山と番所山のあいだの谷間にありましたがそこに避難していました。その時に壕にいた人達は、お母さんと長男の嫁と嫁の姉さんとその男子供と私の4人でした。長男は防衛隊なので軍と行動は共にしていましたので壕にはいませんでした。

 空襲はひどくなり、生きた心地もしませんでした。24日も同じように空襲の猛威は衰えず山は焼け集落は壊滅状態で、ただオロオロするばかりでした。25日の朝方、南のほうから、二千艦隊という米軍の艦船がやってきて、完全に島は包囲されたのです。山に登って海を見わたせば、海は黒くなり、船と船との間を歩いていけるような状況でした。米軍は日本軍の陣地がある山に空からガソリンをまいて、焼き払いをしたのです。その後、一斉に島への艦砲射撃が行われたのです。艦砲射撃は主に島の裏側から砲撃し、山を越えて飛んできたのです。上陸前の艦載機による攻撃は3日間続き、いよいよ上陸という時、住民は男女を訪わず軍の戦闘に協力し老人子供は忠魂碑の前に集合、玉砕すべしという命令が出されました。私はこのときは玉砕の伝令は聞いておりませんでしたが、後から知ったのです。

まさかこんな小さな島に米軍の大艦隊が来るとは、夢にも思ってもいませんでした。

たしか25日に宮里盛秀助役のおくさんが(トヨさん)やってきて私達の壕へ行こうと誘いがあり、産業組合壕にいったのです。中にはすでに沢山の人達がいて、食料や役場の書類などが山積みされていたのです。松田家の家族や農業組合の職員の家族と役場の三役他職員の家族がいたわけです。中はお米の上には子供達が数人座っていました。私達も中に入ろうとしたのですが、兄さんが中に入ると息子の守が窒息するので入らないというのです、それで私達は出ていったのです。私達はその時までは死ぬ事は考えていませんでした。その時、船頭殿(センドーロン)の壕で宮里盛秀さんのお母さんが、皆なで死ぬのだからと黒砂糖を少しづつ分けて与えられたのです。私はその時は島の周辺に居るアメリカ軍の機動部隊の凄い数の艦船を見たときから気は動転して、叉、25日の島への徹底した猛攻撃にオロオロしていたわけで死ぬことの考えさえもありませんでした。この状況からして生き残る事は無いだろうと思っていたのです。それから私達の壕にもどったのでした。そしたら壕には猫イラズの毒薬があったので、お母さんがこれを飲んで眠ろうと話してきたのです。死ぬことを覚悟したのでしょうね。私は死ぬのがいやだったので、お母さんに、「これくらい毒の量では一家玉砕は出来ないよ」、ただ苦しんでアメリカ軍に捕まるだけだよ。アメリカーに捕まったらなにされるかわからないよ、私いやだといったのです。お母さんに逃げて、逃げのびようよと話をしたのです。そしたらお母さんがうなずいたので、直ぐ猫イラズを捨てたのです。それから山中を逃げ回っていたら、番所山の頂上に大勢の住民や兵隊がいたのです。お母さんはそこでも死にたいということで、兵隊さんこのナタで私ども一家を殺して下さいと嘆願しているのです。兵隊はこのおばさんは怖いねと云って、その場所から逃げていったのです。お母さんは頭が狂ったように死ぬことばっかり考えていたのです。

これはアメリカ軍に捕まると娘と嫁に対して何をされるかという恐怖感があったのでしょう。それから私達は阿佐地区に逃げていきました。ユヒナの所にある水溜場に水を汲みにいったのです。これはおんぶしていた子供、守が元気がなかったので水をのまして介護したのです。

 ユヒナ方面をさまよいあるいていたら、その時にそこにいた日本兵の中尉(筒井中尉?)が絶対、捕虜になるなと強く言われたのです。捕虜になりそうなときは舌をかみ切って死になさいなどと云われたのです。その中尉はしばらくして久米島にサバニで逃げる途中でアメリカ軍の銃撃によって戦死したのでした。私達は宮里盛永さんの身を潜めている場所を探していき訪ねました。その時にはいろいろなアメリカ軍の情報が入っていたので、投降を決意したのです。

妹は激戦の中でも負傷した兵隊達の治療手当は衛生兵の関根清さんと共にアメリカ軍の猛攻撃をうけながらも負傷兵を治療に専念したのは大変な御苦労だったと聞いていました。先に捕虜になった日本兵の折衝により、妹はアメリカ軍に収容されたが、その時は収容されたことを後悔していました。当時の区長だった知念繁信さんに、君は看護婦なのだ、看護婦には敵も見方も関係ないのだよ、今、アメリカ軍に収容されている住民や日本兵の負傷者が大勢いる、アメリカ軍のドクターと共に患者の面倒をみてくれと頼まれたのでした。



アメリカーは捕虜を殺さないよ

 

 宮平芳男(カーノハタ次男)   昭和3年12月20日生まれ   当時16歳



 私は国民高等科学校を卒業して阿佐地区にあった。鰹船の栄泉丸に乗っていました。当時は鰹漁も阿佐では盛んに行われていました。船には座間味区の従兄弟の大城喜光さんとお父さんも乗船していました。従兄弟の喜光さんは非常に勉強家で絶えず船には本を持ち込み航海中の暇の時は絶えず書物を読んでいました。将来に対して何か夢を抱いているような勉強家でした。

 そんな平和でノドかな、座間味地区に昭和19年の9月10日の夜遅くから座間味の沖合に大型輸送船がやってきて、座間味の海岸の広場に日本兵の1,500名がやってきました。

私達青年団も軍への協力ということで協力体制に入り、海岸に生えているモクマウの枝を切りハンモック担ぐ棒の切り出しに一生懸命頑張っていました。その時は軍への協力ということもあって。その時は、ほのぼのと作業を行っていました。明け方の鶏が鳴き始める頃まで行ったのでした。座間味島の婦人達は食料の焚きだしに一生懸命でした。そのときからこの太平洋戦争は沖縄までやって来るのだと、ヒシヒシと感じるのでした。

 そのときから国民学校は休校、学校は特別幹部候補兵たちの宿舎に使われた訳です。青年会館は本部事務所に使用されて、郵便局は将校達の会議室に使われたのです。食料増産ということで国民高等科の生徒達と青年団達は毎日のようにトウウンマ(唐馬)に開墾作業に徹したのでした。

 私はその時は鰹船の栄泉丸でカツオ漁を行っていました。当時の私の仕事は伝馬船ヒキでした。日本軍がきてからは釣ったカツオは軍へ提供ということで毎日のように軍民一体となった座間味島での生活だったのです。それでも住民は文句も言わず親しくお互いが共に暮らしたのでした。栄泉丸の出漁時には、毎日のように日本兵の上等兵クラスの1人が乗船して監視監督がされていたのです。そのような事が10月10日まで続いたのでした。

10月10日は早朝よりカツオ釣りに使用する餌を穫にいき、早いうちに完了したのでカツオは大漁でした。午後の3時頃座間味港のウルンの先に来たときに阿嘉上空よりグラマラン機4機編隊で座間味の港の船を銃撃したのでした。その内の1機が私達の栄泉丸に低空でやってきたのでした。ダダダダと銃弾を撃ち込まれたのです。大城喜光さんが即死です。

そして船長であったカーノイ(屋号)宮平忠夫さん脇腹をえぐりとられて重傷、船底に穴を開けられて。船は沈没、船は沈没してもながされないようにアンカーを投錨固定したのでした。お父さんは船から離れていて潮流にながされていました。一緒に乗船していた。メー(屋号)高良一男さんが泳いで行き首をつかみ引っ張り、お父さんは難を逃れたのでした。

大城喜光さんの遺体はその日に収容し墓に葬ったのでした。なんと惨い事なのだ。あんなに頑張っていた同級生が銃撃によって殺されて、ただオロオロするだけでした。

 栄泉丸はそのあとに阿護之浦港の大浜海岸に移動したのでした。

10・10空襲までには本部壕は幾つか朝鮮人軍部によって掘られていたようだが、戦争は長期化することで私達、栄泉丸組合の人達は強制労働による本部壕堀にかり出されたのでした。

途中より、栄泉丸組合の人達は本部の将校の命令により、将校達が会議終了してからの食料を調達せよとのことで、本部壕は朝鮮人軍部に掘らして、それからといのは毎日のように魚貝類獲りとなったのでした。

本部は燃料節約という事で早い時間より会議を始め、その後、座間味島の婦人部に会食用の料理を作らされて慰安婦交えての宴会となっていたのでした。漁が少ないと将校より叱られたのは、あの時は納得できませんでした。

 10・10空襲があってから戦争は間違いなくこの沖縄までやってくるだろうと誰もが考えていました。阿佐区に住む高良一男さんは戦争を3回も経験した人でしたので、その人がいつも話していたことは3月頃には必ずアメリカ軍は沖縄にやって来る。座間味島にも上陸するだろう。もしアメリカーと遭遇したときは手を頭において抵抗しないで頭をさげれば捕虜として収容するはずだからと徹底して阿佐区民に話しをしていたのでした。捕虜になると捕虜であることの印の腕章をあげるはずだからそれを着けていればアメリカ軍は絶対捕虜を殺さないから大丈夫だといっていました。そのことから阿佐区民は玉砕から救われたのではと私は思っています。高良一男さんに大変感謝しています。

 私のお父さんも高良一男さんの話を聞いてからのことでしょうか。落水(ウトミズ)地区に家族の防空壕を掘っていましたが。更に阿佐の裏海岸に大きな自然壕があることを知っていましたので、アメリカ軍が上陸する前に、その場所を住民が住めるように整備していました。

私達家族は3月1日の空襲以来、落水(ウトミズ)地区の自分達の壕と家といったり来たりの生活をするようになっていました。

米軍の上陸の時には阿佐ちくの裏海岸にあるヌンドルウーガマに約2週間程、そこで身を細めていました。阿佐地区の住民と座間味区の一部の住民は白旗を揚げて新田原の山頂よりアメリカーがいた座間味区にいって収容されたのでした。

宮里つる子(屋号・松本  当時の名前・松本つる子)

              昭和9年1月18日生まれ 当時11歳

 祖父母が屋嘉比島の開墾のため屋嘉比分教場で小学校に通っていたが昭和19年10月10日の午前9時頃座間味島上空に飛行機3機が飛来してきて銃撃音が聞こえてきた。しばらくして一機の飛行機が屋嘉比島の上空に現れ、雨のような無差別銃撃を展開したのである。十・十空襲は朝より夕方まで徹底した空襲に見舞われて自然壕に人々は避難していた。学校も住宅も散々たる壊滅状態にただオロオロしているだけであった。住める家が無いため私たちは自然壕や銅山の坑内で生活をするようになり分教場も閉校となった。

 その時に慶良鉱業所の所属の慶良丸が銃撃をうけて漂流しながら久場島沖で沈没したのである。昭和20年3月23日の早朝より米軍の艦載機によって山は焼かれ集落は猛攻撃となり、不安と恐怖の一夜をあかしました。

 米軍機の攻撃は翌日も絶え間なく続き、むしろ激しさを増すばかりでした。そして25日、午前7時頃だと記憶しているが、久場島の遙か南海上に黒煙を発見して島の人達は「日本艦隊だ」と叫び大喜びをしていた。艦隊の接近に伴い、それが米軍駆逐艦と知ったときには、人々達は各壕や自然壕と坑内壕にと逃げていった。しばらくして1隻の艦船から屋嘉比島に集中的に艦砲射撃となった。それを合図に他の10隻の艦船からも徹底した攻撃となった。まるで雨が降るような状況でした。米軍は空から、海からと総攻撃を展開し、身動きとれず自然壕の奥のほうで家族は身震いしていた。その日の艦砲は午後5時頃に終了し艦隊は南海上に撤退していった。私たちの壕は海岸の大きな目立つ壕でした。その時の避難していた自然壕には3家族の約20名程が入っていました。26日の米軍が上陸してきて私たちが投降呼びかけに応じなかったため手榴弾を投げ込まれて母がなくなったのです。その時やむなく投降して米軍に収容されて屋嘉比島の南にある桟橋の自然壕に全員が収容されて約1週間くらい後で座間味島の阿真地区に収容されたのです。

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