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座間味村の歴史散歩の話です。

座間味
うりずんです。

   座間味村の歴史散歩
   137年前の証言

  阿佐ヤマトウマ 和久田勇次郎の墓

 座間味区から阿佐区ぬける村道座間味阿佐線の座間味生コンがある砂置き場の海岸沿いに1メートルくらいの高さの墓がありますが、これは今から137年前に建立された墓です。明治6年4月に建てられた。和久田勇次郎(現在の千葉県木更津市出身)という方のお墓ですが、では、なぜ千葉県から遠く離れた座間味村にこの方は葬られたのでしょうか。

 話はずいぶんさかのぼりますが、明治4年12月に起こった、ある事件と深い関係があるのです。その事件とは、那覇を出港した宮古の船が宮古島の近くにさしかかった時、風向きが変わって台湾に流れついてしまい、乗員、乗客66人のうち54人が、台湾人によって殺されたのでした。

 歴史的にも有名な「台湾事件」なのでした。

 明治4年と言えば、日本では廃藩置県が行われ、琉球王国は鹿児島県の管轄に無理矢理入れられますが、この事件をきっかけに、翌年(明治5年)には琉球藩となって明治政府の外務省の管轄に入れられました。つまり日本国政府としては、琉球が長年、清国(現在の中国)と親しく貿易を行っていたのですが、琉球は日本の領土であることを強調したかった訳です。そして台湾に対しては、日本人を殺したことを理由に征伐に乗り出すことになったわけです。

 和久田勇次郎の墓は、実はこの台湾征伐と大きな関係があったのでした。

 明治6年1月、日本政府は海軍省水路局に対して、南西諸島の水路測量を命じたのでした。これを水路局開設以来の大計画ともいわれ、台湾への兵隊派遣の前準備として、風向や潮流、水深、避難港など、南西諸島の水路事情を知る必要があったわけです。

 そして2月測量艦は品川湾を出発し、琉球にやってきました。この総指揮をとったのが、柳楢悦(やなぎ・ならよし)海軍大佐で、4月10日、強風が吹き荒れる中を柳大佐ら一行は避難のため阿護乃浦港に入港したのでした。

 ところで、その翌日、乗組員の1人である和久田3等水夫(当時24才)が亡くなってしまったのです。墓刻銘には「突然の脚疾」で亡くなられたと刻まれていますが、亡くなられた詳しいことは現在でも分かりません。
和久田勇次郎の遺体はヤマトウマの一角にうめられ、古里の千葉に向けられて墓碑が建てられています。現在でも墓は残っています。

 明治7年には、彼らの測量に基づいて西郷従道(つぐみち)(西郷隆盛の実弟)率いる軍隊が台湾に斬り込み台湾を征伐したのでした。

 私達座間味村あるいわ慶良間諸島においては歴史の背景に様々出来事がありました。

和久田勇次郎も日本国の為に殉職したと言っても過言ではないでしょうか

和久田勇次郎の墓です。
137年ぶりではないかと思われますが、私と他2名で参拝をしました。お酒とお水をお供えして、墓標に水を注ぎました。又、周辺もアダンの木でおわれていましたので、除去しました。
明治6年4月11日に亡くなられたのことですので、命日の日にお参りします。
DSCF0229.jpg

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