パパイヤ光太郎=プロフィール=

パパイヤ光太郎

Author:パパイヤ光太郎
FC2ブログへようこそ!

ご来客数

メール

リンク

広告エリア

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

RSSフィード

ユーザータグ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

座間味村の戦争の話です。

座間味

うりずんです。

 座間味村字阿佐地区に住む宮平春子さんの戦争体験話です。

 これは豊見城市に在住の宮城恒彦さんが聞き取りしたのを掲載しています。

    お父さんを恨まないでね。

 昭和20年3月23日から米軍上陸前の空襲が始まりました。郵便局の近くに落ちた爆弾の暴風で春子の家は潰れてしまいました。それからは防空壕の中での生活です。産業組合の防空壕から少し離れた松林の中に家族の壕は掘られていました。

 空襲が止んだ夕方、姉の峯子と2人、壕から出て家に戻りました。壊れた家の中から食料になるものを捜し出しに行きました。牛小屋も倒れ、牛もやられていました。後で盛秀兄が肉を切り取って壕に持ち帰り、煮て食に供したが、その味はまずいものでした。

 24日も朝早く家に戻って、壕での生活に必要な食料などをあさっていました。かき集めたものを風呂敷に包んで壕に戻ろうと姉と歩いていました。

 突然、高月山より低空してきたグラマリン機の編隊が一列になって村に機銃掃射を浴びせました。とっさのことにあわてふためいた2人は近くにあった壕に飛び込みました。

 そこにはたくさんの村人が避難していました。名前を確認することのできる余裕などありません。少し落ち着いてからまわりを見回すと、島の青年ではない見知らぬ男性が数名いました。春子たちの近くに居た彼らの1人が「姉さん、ペイグン(米軍)上陸間違いない。カクコ(覚悟)できていますか」
 と言います。言葉のなまりから朝鮮軍婦ではないかと察しました。即座に「覚悟できています」答えたものの、あたりの空気に、いたたまれない気持ちになっていました。

 何かの集まりの時には、彼女たちは「潔よく(いさぎよく)死ぬ覚悟をせよ」といつも訓辞を受けていたので、こういう言葉がすぐ口をついて出たのでしょう。男子青年の集まりには次のような歌の力強い斉唱も聞かれました。

  日本男児と生まれて
  戦の庭に立つからには
  名をこそ惜しめ兵(つわもの)よ
  死ぬべき時に清く散れ
  御国に尽くす桜花

 島の男女青年団は団長の指導の元で、毎日次のような訓練を繰り返していました。朝早く係の者が主要な道の四つ角で太鼓を「トン・トン・トン・トン・トン・トン」とたたくと青年たちは浜のモウ(草原)に集まります。そこから鎮守の杜「マカ-」まで駆け足で行進していきながら「米英撃滅、米英撃滅」とかけ声をくり返します。マカ-の杜の広場で「忠魂碑」をバックにして「海行かば」を斉唱するのです。

 「海行かば水ずくかばね 山ゆかば 草むすかばね 大君のへにこそ死なめ
かえりはみはせじ」

 声が小さいと、何度も繰り返して歌わされました。
 その後、女子青年たちは学校の運動場で竹槍訓練をします。40名ばかりの人数を5組に分けます。そして、学校に保管してある2メ-トルばかりの竹槍を持ち出してきて、両手で構えて勇ましく10歩ぐらい前に突進していきます。そして、敵兵を想定して作られた藁人形に「エ-イエ-イ、ヤア-」の掛け声と共に力強く突き刺す仕草をします。その後、後退してゆき、列の後尾につきます。その訓練を繰り返すのです。

 アメリカ兵が上陸してきたら、このように戦うのだと叩きこまれたのでした。春子たちはその事を疑わず、真剣に訓練に励んでいました。

 アメリカ兵は弱虫だ、さらに、竹槍に怯(おび)えて逃げていくのだ、と信じ込まされていた純情な乙女たちでした。
 
 夕方空襲がやんだので、春子と峯子の2人は自分の家の壕へと急いで移動しました。着いてみると、壕の中には16名の人達がうずくまっていました。その食事を作るのは春子の仕事だったのです。

 田んぼから汲みとってきた水で米を洗い、ご飯を炊きました。焚き付けが悪いので、クバ扇であおぎましたが、なかなかうまくゆきません。壕の中なので、煙が充満してしまい、むせぶ者もいます。

 精一杯がんばっても、せいぜい1人に1個の握り飯しか作れない量の米しかなかったのです。横になる広さもないので、みんな座ったまま、眠れない夜を明かしました。
 25日の朝も姉の峯子と2人で自宅に出かけ、食料らしきものを取りに出かけました。定刻出勤のように米軍の飛行機はやってきて空襲を仕掛けます。その隙間を狙って自分の家とかけていきました。味噌カメに残っていた味噌をかきとり、米を集め袋にいれ取り込みました。

 25日翌日の朝方、帰りも敵の飛行機は盛んに空襲を繰り返しています。道々石垣や木陰に隠れるようにして、自分たちの山の壕をめざしました。来たコースは飛行機の襲撃にあう恐れがあるので、丘の麓に沿ってかがむようにしながら、内川の方へと突っ走っていきました。

 自分たちの壕に差しかかった時です。突然、低空して来た飛行機が爆弾を落としたのです。「ドトーン」という重い轟きと共に黒い硬い泥水がすごい勢いで襲って来て顔に当たり、春子は吹き飛ばされ、近くのに在った壕の中に叩き込まれました。目の前が真っ暗になってしまい、しばらく意識を失っていました。

 気がついたら、壕の中には数名の日本兵がいました。彼らも爆風で飛ばされた泥をかぶっていました。1人の日本兵が言いました。「この空襲様子では、米軍の上陸は間違いない。彼らに捕まれないように、死ぬことを覚悟していてくださいよ」
 と、また言われました。

 「覚悟はしています」

 素っ気なく答えました。その意味する内容を深く考える余裕など頭にはまったくありませんでした。早く自分たちの壕へたどり着こうとの一心でした。爆音が遠のいた隙(すきま)にさっとその壕を飛び出していったのです。

 近くの田んぼの中で爆弾は炸裂したので、泥水をかぶされただけで、2人とも幸いにケガはありませんでした。泥だらけの相手の見ても何の感情もわかない放心状態になっていました。

 晩になっても艦砲は止みません。9時頃、それまで、軍との接触が多く、家族にほとんど顔を見せなかった助役でもある兄の盛秀がやってきてきました。父親に近づいてきておもむろに

 「お父さん、米軍の上陸はまぬがれない。軍の命令で、潔よく玉砕しなさいいと言われているから・・・・」
 と淡々と告げ、話は続いていました。しかし「玉砕」という言葉を聞いた春子は頭の中が白くなってしまい、兄の語るその後の話は消えていきました。
 しばらく間をおいてから父親は

 「どうしても死ななければならないのか」

 と弱々しくたずね、その後に言葉は続きませんでした。
 それまで、夜遅くまで軍といろいろと打ち合わせがあって帰宅が遅くなっていた息子に気がついていた父親は、とうとう来るべき時がきたと言わんばかりにの悲壮な面持ちでした。多くは話しませんでした。

 さらに盛秀は
 「軍の命令だから仕方がない。これまで何の親孝行もできなかったが、あの世で孝行してあげるからね」
 と涙声で語り、春子が田んぼから汲んできた水を湯飲みに入れて、親子で水杯を交わしました。

 その後は2人ともただ黙っていました。壕の中には嗚咽(おえつ)がもれているばかりです。声を出す人もいません。地獄の扉の前に立たされているような、張りつめた空気になっていました。

 壕の外では照明弾の薄紫の怪しい光が廻りを照らし、艦砲の炸裂音が遠くなり、近くなりして唸(うな)りと地響き立てています。

 地獄へ追い立てるような不気味な悪魔の叫びと光のようです。
 盛秀は、7歳の長男と6歳の長女、そして4歳になる次女の美枝子をひしと抱きしめて
 「こういう風に我が子を国の為とはいえ、自分の手にかけるとは忍びない。生まなければよかった。お父さんを恨まないでね。怖がらないでね、お父さんもお母さんも一緒だからね」

 と子供たちに言い聞かすような、また、自分を納得させるような絞り出す涙声には、無念さと哀切(あいせつ)さがこもっていました。

 結婚していなかった春子はこの場の兄の心境を察して涙するだけでした。最後のご飯ということで、1個ずつ握り飯が配られました。「死」というものが何か知らない子供たちは腹が減っているので、がつがつ食べています。その様子にいっそう胸が締め付けられました。大人は誰も握り飯を手をつけませんでした。

  ハンマヨー アレー敵(大変だあれは敵だーアメリカーだ)

 25日の夜の11時頃、家族はゾロゾロと「マカー」の杜へと盛秀が先頭になって歩きだしました。相変わらず艦砲は飛び交うし、照明弾の閃光が辺りをセピア色に染めています。丘を下り、学校裏の農道を歩いていました。

 春子は死にたくないと思いました。兵隊たちには死の覚悟はしていますと答えはしたものの、どうにかまぬかれる方法はないものか、道々考えていました。どんな方法でこんなに多くの村民たちを殺すのか、疑問に思いました。

 もし、毒物の「猫イラズ」を渡されたら、飲むまねをして、吐き捨てよう、また、銃剣で刺しころされるなら、番が回ってくる間に暗闇の中を逃げ込もう、と、死をさけるいろいろな方法が忙しく頭の中をかけぬけています。しばらくすると、マカーの方から黒い人影が走りながら、春子たちの側を通りかかりました。
 
 「マカーには誰もいないよ。艦砲が2個落ちたので、集まっていた人達は散っていったよ」
 と、狼狽(ろうばい)した声を投げかけながら突風のように去って行きました。

 宮里家の一行は盛秀の指示で引き返すことにしました。産業組合の防空壕についてみたら。すでに村人たちで壕の中は詰まっていたが、義姉のトヨと峯子は入り口近くの人を押し込むようにして中に入りました。トヨの次女の美枝子を背負っていた春子は入り口近くに立っていました。家族の皆が入れないので、盛秀は壕の中に向かって大声で呼びかけました。「皆さん、この壕は役場の人たちが避難するところですから、関係のない人たちは出てください」

 すると、壕の奥から
 「皆さんと一緒に死なせてください」
 と女の人の声が帰ってきました。
 「私たちは皆さんの責任まで持てません。各自その方法を考えて行動して下さい」
 と盛秀は説得しました。けれども、
 「産業防空壕は皆のものでしょう。先に避難した人に優先権はあるのではないですか」

 と言い返されて、出て来る者はいませんでした。一歩でも外にでると、廻りに炸裂する砲弾に当たってしまうという恐怖心が皆のむねに巣くっていたのでしょう。

 盛秀が壕の入り口で顔を中に出し入れして、退去を依頼するが、壕の中の人たち出てくる気配が全くありませんでした。仕方なく、盛秀は家族の者に自分たちの壕へ戻る事を指示しました。
 しかし、盛秀の妻であるトヨは、夫と共に居たいということで、2人の子どもを伴って残る事にしました。春子がおんぶしていた美枝子はトヨに「よろしくね」といわれて、預かってその他の家族と共に丘を滑ったり、転んだりしながら艦砲の音や照明弾の閃光に終われるように自分たちの壕へと引き返したのです。弟の直は連絡係りとして産業防空壕にとどめられました。

 この一齣(ひとこま)が兄の家族と弟の見納めの顔となってしまいました。一晩中、艦砲は轟いていました。春子は壕の中で敵の上陸の場面をいろいろと想像して眠ることができませんでした。

 夜が明けて、26日の朝になりました。艦砲の音は消えています。飛行機は上空を旋回しているが、爆弾を落としたり、機銃を掃射したりする様子もありません、廻りは元の村の静けさです。ただ空襲で焼けた山々はまだくすぶっています。

 組合の壕に残っていて、連絡しにくるはずの直の姿が見えません。父は壕から出て外の様子をうかがっています。「どうしたんだろう」と怪訝(けげん)そうです。なにか人の気配がありそうなものだが、と父は廻りを見回しているが。人影が見えません。

 その時、子どもたちが盛んに水をほしがってわめいています。かれらのために下の田んぼから水を汲んでくるように、と春子は父に言いつけられたが、1人で行くのを怖がったので、父親もついて行ってくれました。下り坂を途中までやってくると、前後を兵隊に挟(はさ)まれるようにして田んぼのあぜ道を移動していく数人の村人たちが見えました、父は「日本兵たち島人を避難させているんだ」
 と言います。しかし、春子は

 「お父さん日本兵なら脚絆をまいているはずなのに、あの兵隊たちはズボンのままだよ。怪しいよ」
 と疑問をはさみました。すると、父は
 「朝鮮群夫の兵隊だ」
 と言い返します。そして、丘の上を振り向きました。すると、兵隊たちが手招きして
 「ヘーイヘーイ」

 と呼んでいます、父は日本兵が避難指示をしてくれると思ったらしく、声のする丘の方へと登りだしました。春子もついて行きました。ところが、それらの人影に近づくにつれて米兵とわかり「ハンマヨー、アレー 敵ドゥエシガ」(大変だ、あれは敵だ)

 と、頓狂(とんきょ)な声を出し、自分たちの壕へ駆け込みました。春子もすかさず父の後を追っていきました。
 すぐさま、父は家族全員を引き連れて、坂を滑るように高月山に登る谷間へと誘導しました。

 そこで外兼久(ふかがにく)からジキランガーに嫁に来ているシゲさんが、2人の子どもを連れて右往左往している場面に出会いました。父の盛永を見つけると、すがりついてきて、
 「ネコイラズは持っていませんか・カミソリはありませんか」と血眼(ちまなこ)になって迫ってきます。
 「どうして」

 との質問に

 「死にたい。お父さんは支那事変で死んでしまったし、早くお父さんのところへ行きたい」
 と涙声でシゲさん口走るのです。

 お父さんは
 「死ぬのはいつでもできる。そんなに急ぐ必要はない」

 と引き止められました。しかし、彼女は聞く耳持たぬ様子で、ただ狼狽(ろうばい)しているばかりです。彼女たちかまってはおられません。敵兵はすぐそこまでやってきているのです。春子の家族は急いでその場をはなれ、高月山を経由して阿佐村に降り、さらに大浜に作っていた自分たちの農具小屋に避難しました。

 そのジキランガーの家族が整備中隊の大和馬の壕で家族全員、集団自決をしてしまった、と知ったのは戦後の事でした。
 さらに、兄、盛秀の家族など役場職員、村の人たち59名が産業組合の壕で集団自決をしたことがわかったのは、春子たちが山を下りて、しばらく経ってからでした。

      宮平春子さんの戦争体験談よりでした。

 ジキランガー家族36名が集団自決をした大和馬(整備中隊壕)の入り口です。
3名のおじーたちが全員を絞め殺し最後に1人のおじーが2人のおじーを殺したのですが、自分では死にきれず
戦後生きていたが毎日のように辛い日々を過ごしていました。
1大和馬壕

<< 座間味村において慰霊祭による自由参拝がありました。 | ホーム | 東北地方太平洋沖地震の津波の影響がありました。 >>


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

人気ブログ

 BLOG TOP 


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。