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座間味村は67年前の今日の日(3月23日)は悲劇の島になったのでした。

座間味
うりずんです。

 今から67年前に太平洋戦争沖縄戦はアメリカ軍が始めて座間味村に上陸して悲劇の島となり大勢の住民が犠牲になったのでした。
 日本軍は民間住宅に900名が分宿されて、住民は日本軍に軍で指導を受けたことを住民に対しても徹底した指導がされたのでした。
 67年前の3月23日の今日の日にグラマラン幾の100幾ちかくが午後11時45分頃、座間味に奇襲をかけたのでした。
 アメリカ軍空襲(23日状況)
 当時、軍は離島苦のため食糧に懸念して食糧増産を企画し男女青年団並に国民学校高等科生の協力を求めて未開地の開拓のため俗称「マチャン」に行き作業開始後約一時間にして突如頭上を小型機(グラマン幾)四機が通り過ぎて隣村の渡嘉敷島に爆弾が投下されて始めて敵襲だと知り、そして見上げた上空には無数の敵の機影を発見した。

 おびただしい其の数に青年団、並びに生徒達は、只、茫然と立ち尽すのみ、我にかえって見れば座間味部落方向からは赤黒い如何にも気味悪い煙が大きなかたまりとなって大空高く舞昇って行く、途端に全身の力が抜けて頭がふらふらとなって、めまいを感じた者もいた。

 永年、住み馴れた我村は、我家は、又、家族はと其の安否を気遣うだけで其の場から動く事すら出来なかつたと言う。青年団及び生徒等の心情が察しられて断腸の思いがするのであつた。生命の危険は毛頭考えられない。

 其の内に部落全体を破壊し、見える敵機は周辺の山々に攻撃を開始した。最初に「ガソリン」を撒き散らして其の上に空襲と来たから堪らない。たちまち山全体が火の海と化して仕舞った轟々たる火の燃える音、爆発の音が入り乱れて何とも形容する事が出来ず只、我を忘れて見入るばかりであつた。

 癒々、周囲の山々が炎々と燃える頃になって始めて身の危険を感じ、慌てて深い谷間に難を避けたが極度の絶望感に1人として口をきく者もいない。

 深い物思いに時の経つのも全く解らない。其の間、猛撃を繰返した敵は1機去り2機去りついに夕刻迄には全機引揚げてしまつた。1刻も早く部落の被害の状況を知り、走る心を押えて谷間を飛び出し皆、帰途に着く。

 作業隊は家族を案じて途中、坂道を駆足で急ぎ、家族は又作業隊を案じて迎えに来る。出会ってお互いに無事を喜んだ。部落の事を聞き、家族はこちらの事を聞き、お互いに1刻も早く村全体の状況が知りたくて急坂を大急ぎ峠迄来て見下せば、これまた何とした事だ、兼ねて覚悟はして居たとは言へ今目のあたり見る所の我が村の有様はこれが今朝迄各戸とも石垣で囲まれ整然としていた我が村なのか。

 山麓近くの学校は屋根も軒も皆崩れ落ちて炎々と燃えて居る、村中は殆どの石垣が散乱し崩壊の状態だ、家は全壊炎上、大破、中破、其の被害たるや全滅、その通りである。泣いても泣けぬこの惨状に皆が失神状態になり乍らも漸く各自の屋敷に帰った。住むに家なく全住民は其の日から早速防空壕住いである。不幸にも当日住民二十三人の死者を出し、傷を受けた人の数も相当あつた。

 米軍上陸

 3月24日、土、臭も鼻をつく壕で1晩を過ごして目を覚す頃には既に敵機の来襲である、部落内の残った家々に対し、また各所に設けられた軍施設に対し物凄い攻撃を加へている。飛行機の数も昨日に劣らない。

 一体友軍機は何をしているのだろう。敵はこちらの無抵抗に対して存分に悠々と親猫が小鼠を弄ぶ様に何の不安もなく爆弾投下、機銃掃射と歯をくいしばるほどである。

 其の頃から口にこそ出さないが、誰もが今度の戦争は敗けるのではないかと思っていたであろう。心待ちに待った友軍機は遂に姿を見せずおまけに夕刻からは艦砲射撃迄加へて来たからたまらない。ああ日本もこれで終りか、もしも此の戦争で敗けたら何時もうわさに聞かされた。

 「婦女子は其の身を汚し後に刺殺され男子は道に並べられてローラーの下敷にして仕舞う」と云う通りになるのではないかと夜も眠る所の騒ぎではない。あれを思いこれを考へたらどんな事があっても勝抜いて貰わねば、勝抜かねばならん。必ず勝つ様に協力し努力しようとは婦女子でも心に誓はずには居られないのでした。

 今日は昼夜を徹しての艦砲射撃の連続であつた。恐怖の1夜を明かした今日25日も朝から艦砲と空からの攻撃に一刻も壕を出る事が出来ない。山に河に谷に砲弾、爆弾の炸裂する音は耳をつんざく程である。人の話では相当数の艦船が港内に来ていると言う事を聞かされ何とも言へぬ悪感に背筋が冷たくなった。

 夕刻に至って梅沢部隊長よりの命に依って住民は男女を問はず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老人、子供は全員村の忠魂碑の前にきて玉砕する様にとの事であつた。命令を受けた住民は揃って指定の場所に集まって来た、皆、正装に着替えて居る。

 其の時部隊長及び村長が現場に現われるのが一足早かつたら全住民は自滅を完全に遂行したかも知らない。幸か不幸か敵艦から発せられた1弾が忠魂碑の上部にある老木の枝で炸裂した。

 死は覚悟していたものの、1人が逃げ始めたので全員が、四散して仕まった。壕に帰る者、山に逃げる者、思い思いの方向に走り去ってしまったのである。そして若き者は殆ど軍の所に走って行動を共にした。

 3月26日朝敵弾の中をくぐって小高い場所に登って見渡したら、更に失望落胆させられたのは今、目の前に繰り広げられた有様は島の周囲は全部敵艦艇で十重、二十重に取巻かれて居るではないか。

 其の数のおびただしさと言うたら4,5哩も離れた各小島迄足もぬらさずに渡れる位だ。今にも物凄い数の敵兵が上陸して来る様で生きている心地はないのでした。

 午前9時頃から癒々敵方では上陸を開始した。其の援護攻撃で陸上は、まさに弾丸の雨である。

 部落にきて応戦していた日本軍も遂に抵抗する事が出来ず俗称「高月山」迄、後退の止むなきに至った。午后になって全軍番所山に集合、命令が発せられて最後の抗戦場所と定められた。そして各配置が決定されてアメリカ軍を此処で遮断すべく待ち受ける事になったが夜になっても敵は山に登って来る気配がない。しかし部落内には既に敵兵が密集しているが、報告に依って今夜中は絶対に山頂迄来る事は出来ないと知った友軍は番所山中に集って、互に郷土の話や、身の上話、写真の見合せ等、明日なき命を忘れて皆、最後の訣別をお互いが話あっている様はなんとも云いようがない情景であった。

 3月26日にも慶良間戦のことを掲載します。

住民はアメリカ軍に収容されて震えている状況でした。
小その日投降

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