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本日(3月26日)平和の塔で慰霊祭と祈念植樹が有りました。

座間味
うりずんです。

 本日、午前10時より戦争で亡くなった御霊の霊を癒すための祈念植樹と自由参拝による慰霊祭がありました。

 今から68年前の3月25日に座間味村に米軍の艦隊2000艦隊と186,000人の米軍が座間味村海域に押し寄せて26日に米軍が上陸して座間味村は大変な悲劇の島となりました。

 そのことから本日、戦争で犠牲になった御霊に対して慰めの祈念植樹と自由参拝の慰霊蔡が行われて村民や観光客が約100人程が参列参拝しました。

 慰霊祭による祈念植樹は平和の塔の広場で行われて各自自区の代表5人と各校3校生徒代表3名で桜の木の祈念植樹となりました。

  3月26日の平和の塔です。
小平和の塔

 座間味村(宮里哲村長)では26日午前10時より。戦争で犠牲になった御霊を奉っている平和の塔において村民が約百人程参加するなか祈念植樹と自由参拝による慰霊蔡が行われました。

 座間味村は沖縄戦の米軍の第一歩の上陸の地として沢山の村民や軍人が犠牲になったことから、上陸した26日を座間味村の慰霊の日として制定し三十三回忌までは毎年慰霊祭を行ってきました。

 その後は自由参拝として御霊を奉ってきたが平成7年に役場主催の慰霊祭を行ったが、それ以降も自由参拝として行ってきました。

 戦後68年を迎えることから座間味村では戦争の話を風化させては行けないなどのことで今回も自由参拝と祈念植樹が行われました。

 祈念植樹は座間味村の各自治区の5人の区長と3校の児童生徒代表3人よって行われました。平和の塔は村民が678人軍人が379人合計1057人の御霊が奉られていいます。

 今年度より始めて行う夜の部として8時より10時まで平和の塔の近くの弘場から戦争中に軍事用として使われたサーチライトを平和の象徴「平和の光」としてV型によって上空四千メートルを照射して座間味港に村民や観光客が約150人程が参加して行われました。

 照射を始める前でざまみ女性コーラスによって、座間味村出身の宮城恒彦さんが作られた平和の歌「ふるさとの」を歌い御霊に捧げた。その後、平和の光が照らされて参加した人々は感動しながら世界平和の祈願を行ないました。  


夜の部として「平和の光柱」です。
照射




 昭和20年3月26日よりの慶留間島と阿嘉島の戦況状況です。

1 慶留間島の集団自決

慶留間島は当時150人の人口で、日本軍が慶留間島に来る迄は鰹漁業が盛んな豊な島でした。住民達は島が小さいだけにお互いを支え合い協同生活同様な暮らしぶりでした。

座間味村の南の島、慶留間島は小さな島で山が150㍍の急峻で山岳地帯が9割もあり、農業は自給自足程度の生産でした。

 そのような現況化で戦争の時の避難場所がふさわしいところがあまりなく、住民達は、万一の時はアカムテイ(阿嘉の港に向いている平地)第一中隊の方へ逃げて、兵隊達に助けてもらえれば良いと思っていましたが、あまりにも山が急峻のため、集落よりの山の麓に壕を掘っていました。

 そのような状況のときに昭和20年2月8日の大詔奉戴日に阿嘉駐屯の陸軍第2海上挺進戦隊長・野田好彦少佐が来島し「住民全員、慶留間分教場に集まれ」と命じ、老幼婦女一同に対し隊長より「敵アメリカ軍は必ず慶留間島・阿嘉島に上陸するだろう敵上陸の際は玉砕あるのみ」と異例の訓辞がでたのでした。

 昭和20年3月25日の夜米軍がやってきて、全艦船より艦砲を集中的にうけたのでした。

 その時は艦砲による犠牲者は1人もでませんでした。

 26日、慶留間島防衛に当る(木下隊)約一個中隊の海上特幹隊は米軍の猛攻撃に依って不意をつかれて特幹艇は一隻も進撃出来ずに敵軍を目前にして上陸をゆるしたのでした。

 其の時、住民は野田戦隊長から訓辞を受けた際、隊長が「玉砕」について話していたことが脳裏から離れることが出来ず住民は53名が自決を決行し3人が艦砲による戦死者をだしたのです。

  2 阿嘉島での戦況

 又、阿嘉島には古賀少佐の率いる900名の設営隊と野田少佐の率いる特幹隊104名が駐屯していたが戦況の悪化に伴い3月8日付、沖縄連隊区司令官の命に依って18才以上60才迄の男子と屋嘉比、久場島、両鉱山の鉱夫と阿嘉国民学校高等科生及び青年義勇軍40名計120名は阿嘉島防衛隊として野田部隊に編入せられ約3週間の猛訓練を実施されたのでした。

 3月23日午前8時、食糧確保作業中、阿嘉島最高の嶽原山に敵グラマン機、来襲猛烈な爆撃が展開された。最高幹部連体は上陸の前兆ありと発表し軍は各方面要所に監視兵を配置し敵の上陸の監視体制を強化しました。

 午前11時40分、部落西方(比津志方面)の監視所より敵艦発見の報告あり、続いて同所より、アメリカ機動部隊と知り、野田隊長は全員山頂に後退すべしと命令を下し。午后1時、敵は爆撃と艦砲によって猛烈な攻撃を加えて来る米軍。攻防戦は癒々猛烈となり敵は部落前方海岸に上陸激戦は極度に達しました。

 友軍は其の対策を講じて無線機を山頂各所に設置して沖縄本島との連絡を密にしたが、敵の電波探知機によって無線機の位置が発見され敵の艦砲爆撃が無線機の位置に集中した。

 軍は遂に阿嘉島全島民及び日本軍全員玉砕を決意して総出陣の打電を最後に、無線機を破壊し連絡不可能となる。一方特幹隊では24日小学生を含む斬込隊が編成され出動準備完了し隊長訓示の後、最後の訓辞が為されました。

 26日午前編成された各斬込隊は防衛隊の道案内にて、又、特幹隊は目的の海岸に。整備中隊は阿嘉部落に点在する各所の敵に斬込を敢行した、斬込隊は運よく敵陣中に進撃し不意をうたれた敵は約4時間に亘り、激戦が展開されこの激戦に乗じて特幹隊の一中隊二中隊は舟艇に乗り込み敵艦戦向け出撃を敢行しました。

 又、整備中隊は部落方面の斬込に成功し敵に多大の物的、人的精神的損害を加え更に海岸線の作戦をたて斬り込みを敢行したが、惜しくも敵の敷設せる地雷に依って、殆どの兵士が戦死しました。
 
 明けて26日午前8時過ぎ空襲と艦砲がこの日も猛烈に阿嘉島攻撃され、水陸両用艇が前の浜に上陸が開始された。その時、集落の近くの壕に避難していた5人が射殺され、2人が捕虜となった。住民はスギヤマ(山の中腹にある谷間)避難移動しました。

 27日、住民は、もはや戦況がこのようになっては、玉砕以外ないと判断、全員がスギヤマの広場に集められて、機関銃を前にして時を待った。「天国に行くんだ、皆一緒だから恐ないよ」家族同士ささやきあっていた。ところが、「集団自決」寸前になって、防衛隊員の伝令で「米軍は撤退したから自決する事は中止解散」ということになり、その場は解散することになったのでした。


 戦準備中、不意に上陸してきていたアメリカ軍200名からなる敵と交戦し激戦1時間後、撃退させたが我軍の損害多大にして戦死者多数を出したのでした。

 住民は軍への協力方が高度に要求されたので無法な自決を避け死力を尽して軍に協力した。

 即ち軍と同生共死、其の行動を共にし、男女老幼を問はず「一人一殺」の言葉を厳守して戦闘に参加した
米軍上陸の日、神風特攻隊の悲壮な活躍ぶりを見た、即ち台湾より飛行せる神風特攻隊は慶良間海峡、又、は阿嘉島周囲を取巻く敵艦船に対し午前8時頃より晩にかけて毎日の如く花々しい戦果を挙げる、ゼロ戦1機で最少3隻以上を撃沈した。これは爆弾投下により最後は体当りによって敢行されました。

 軍と住民は、この状況を眼前にせまる時神風特攻隊の精神の尊さとこれに続くべき魂が心底から全身に溢れていました。

 諸特攻隊来襲に敵は空襲警報を発し慶良間海峡一面に煙幕を張る、これを好機として軍民は高所に上り神風特攻の成功を祈り乍ら、戦果の見事さに我を忘れる事が多く、為に敵弾に当って多数の負傷者を出した位であつた、阿嘉海岸に漂流せる有賀航空上等兵曹(戦死)の抗戦の見事ぶりは全員涙をのんだのでした。

 これは敵艦三隻を撃沈した後、戦死したのでした。

 日本軍は4月29日、天長節を期して神風特攻隊と共に最後の斬込みを作戦する神風特攻隊来襲せず期待できなくなり、軍も作戦を控えた有様であつたのでした

 次後、日本軍は食糧不足の状態となり住民に対し「芋や野菜一つたりとも一切、」軍の許可を受けずして採取する者は銃殺する」の命を発し谷間の水さえ自由に飲めず次第に栄養不良となり、年寄・子供が次々と倒れる数が増えて来た、戦況化の中で防衛隊によって民間避難場所内に於いて犠牲壕を造る作業迄実施されたのでした。

 兵士も持参品などに米粒などを発見されると十日間の絶食、又、は銃殺という厳命だった。兵士も一日一食中一杯のヤマブキを食って生を継いだ。そして違反者三十名が銃殺されたのでした。

 (朝鮮群部が殆どでした。)

 食糧事情による軍の厳罰策は極度に達し兵士の苦しみはさておいて、一般住民の苦しみは言語に絶する程であつた。水さえ自由に飲めず軍への協力によって、苦労と栄養失調による衰弱に死んで行く者は、日毎に多くなり、実に悲惨であつたのでした。

 だが住民はこれが日本軍に対する奉公であると思い見る目も傷ましい光景の中で骨と皮ばかりになって軍に協力したのでした。

 時に米軍は阿嘉島の住民と日本兵達を降伏させようと色々の手段が用いられたが、米軍の宣伝には、迷うことなく軍民一体食糧の解決(増産)に努力し、戦う事を軍の指示が出たのでした。

 6月15日海岸方面に於ける水沼軍曹の率いる作業人が敵宣伝軍に包囲され、水沼軍曹は米軍に捕えられたが、間もなく帰島させられて「6月25日迄に降伏するや否や」の敵の要求を野田隊長宛に連絡させたのでした。

 野田隊長は6月25日午前11時、全員集合を命じ最後の訓辞を行った。即ち「降伏せず」との訓辞であつた。

 8月16日大本営発表に「日本天皇は無条件降伏せり」とあるから、これからは弾丸一発も打たないから早く山から降りて来いとの宣伝と敵グラマン機による宣伝ビラが撒かれた。

 軍はそれを信用せず8月28日敵、将校3名が水泳着のまま我が本部に上陸終戦の情報を発表したが野田部隊長は之を信用せず、断固として降伏せざる旨米軍に通達したのでした。

 更に米軍将校は野田部隊長に渡嘉敷島に生存する日本軍は無線機を所持せる故、明日、同島に渡りその真実を確かめようとの話し合いになり翌日ミノキ中尉、水沼軍曹と共にアメリカ軍の艦船より渡嘉敷島に渡り生存日本軍より、終戦の事実を確保した。依って、8月28日遂に涙の降伏となったのでした。


 3 日本軍による老夫婦の虐殺
 阿嘉島のメーアガイ小(屋号)オジー・オバーは年老いていただけにアメリカ軍に先に捕虜となり、米軍により、保護されていた。オバーは足が悪いため、逃げようにも逃げられず米軍に連行されて自分の家に収容保護されていた。4月初旬頃の夜オジーとオバーは耳が遠いため大きな声で会話して居たところを日本軍に知られ。アメリカ軍から沢山の食料をもらったことから、日本軍にスパイ扱いされて翌日までロープで手を縛られて。穴を掘らされてその穴に大きな石で潰されて殺されたのでした。

 昭和20年3月26日午前8時頃米軍が阿嘉島を上陸しました。
阿嘉上陸

  

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