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沖縄県全体の経済を救った座間味村。

座間味
うりずんです。

    座間味村カツオ漁業史

 座間味村で本格的にカツオ漁業が始まったのは明治34年のことでありました。

 当時、沖縄県ではまだ琉球王朝時代の「旧慣制度」である「間切制」が残っていたが、この頃、座間味村の間切長(現在の村長)松田和三郎さんが島あげてカツオ漁業に取り組んだのがこの年でありました。

 今から112年前のことでありました。

 座間味村のカツオ漁業の歴史は実施的には昭和51年までであり、カツオ漁業に営んでいたのは76年間であったことにななります。

 座間味村よりカツオ漁業が盛んとなり、沖縄県全体の各地に広まり沖縄県の経済は大変豊かになり、座間味村によって沖縄県の経済を救ったと言うことは過言ではないでしょう。

 松田和三郎村長は沖縄県の偉人伝としてもとりあげられています。

 座間味村の誇りととも言える。明治から大正、昭和そして平成へと時代を経る中で、この百年の間に、様々な多難苦難の歴史があり、南洋群島進出や太平洋戦争の勃発と島の人達はいろいろな経験を踏んできました。
   松田和三郎初代村長の写真です。
DSC09612.jpg


 当時のカツオ漁業の方法については、漁船一隻に約二十人乗程が乗り込み早朝出船していました。

 当時は動力船が無いため帆を帆走しての航海で、付属の伝馬船を共にし餌とりからはじめる。餌を採り終えたら伝馬船を帰し、島の外洋に海鳥の群れを探して、その方向に帆走させ、海鳥の近くに来たら海水をまきながら進行し、カツオが確認出来たら餌をまきカツオ釣りの開始となり、数十分の時間で多くのカツオを釣り上げた。当時は動力がないことから水まきもヒシャクでの作業のため重要の作業であったため、その役目は熟練したものが務めていました。

 ケラマ節と名声をあげたのは島の山林からは良質の薪が産出され、那覇方面では「ケラマ炊物」(ケラマ・タムン)として有名でした、そこで、この豊富なカツオと薪で良質なカツオ節が出来たわけです。

 その後、安里積勳さん(当時は座間味学校教諭・後で3代村長)の努力もあって、ケラマ節は名声を上げ、沖縄県の主催の共進会においては常に一位に入賞し、県産カツオ節の中でも最高級品と言われるようになったのです。

 昭和10年頃のある記録によれば(座間味島では)カヤ葺屋根の家は一軒だけで、他はことごとく赤瓦の漆喰屋根で、美しい村、裕福な村だったと書かれています。これはカツオ産業、ケラマ節のおかげだったのです。

 安里積勳さんはカツオ節の加工技術を取得するために沖縄県の奈良原繁知事の協力により小田原にあった水産講習所(現在、東京水産大学)現業科で数ヶ月かけて研修したことがケラマ節の名声にもなったのです。

 安里積勳さんはそのときに他の加工業の研修も受け沖縄県では初の缶詰工場と株式会社の設立を座間味村に成し遂げたのでした。その功績は大なるものがあり村民より大変感謝されていたようです。
 
明治43年座間味で初めて動力船が導入され(朝日丸組合)、座間味村がさらに復興期に突入していったのがこのときで大正4年より大正13年頃まで急速に盛んになり、当時の座間味産のカツオ節は殆どが那覇の「宿小」(ヤドガー)とよばれるいわば卸売業者により自由販売され、品質や価格ももまちまちでまだ商品としての体をなしていなかった。それが沖縄県の指導により品質検査と出荷体制の整備が図られた年(大正4年)頃を境に本土市場でも「沖縄産」「ケラマ節」として認められるようになりました。そして、これに刺激を受けて県内各地でカツオ業が盛んになってきたのがこの時代であります。

 昭和の初期に入ると全国的、世界的な不況に入り、沖縄県においても様々な社会問題が発生した。その頃の沖縄では、砂糖とカツオ節の製造業が本格的な産業として発展しつつあったが、他の産業の賃金動労者が大量に発生し、不況のあおりを受けて各地で動労争議が発生した。そんな中、国の政策もあって南洋進出が増え、県内外の水産業界も南洋へ進出も増加し始めた。そんな中、座間味村の多くの村民も南洋進出が始まり、カツオ組合の殆どか南洋での操業となりました

 昭和16年12月8日、日本帝国(大本営)はアメリカに対して宣戦布告をし戦争の突入となった。アメリカ軍は昭和18年6月マリアナ諸島を砲撃開始し7月に日本国は陥落し座間味村より南洋進出した島人は怒濤に迷った。すべてを失った島人は島に戻るのを与儀なくされた。

 戦後の沖縄は日本国から切り離され「琉球政府時代」となるが、座間味村では戦後復興とともにカツオ漁業も再会された。戦後30年間続いたこの「琉球政府時代」に沖縄は米軍政治下のいわば半植民地的な統治のもとにあったが、その中でもカツオ漁業は県内各地で継続されていた。しかし、終戦から間もなく極東の戦略拠点として沖縄駐留米軍基地の建設工事が始まったことに端を発したことと、又、朝鮮戦争の勃発もあって「スクラップブーム」史上希な「経済現象」がおきた。加えて一時期「密貿易時代」という奇妙な時代現象もあった。こうした中で、やがて座間味村のカツオ漁業も次第に衰退の一途をたどることになったのでした。

 阿嘉島では昭和45年、宝泉丸を購入しパラオ付近まで操業するが昭和46年パラオ島に領海侵犯で、拿捕されて8,000ドルの罰金と不漁続きも重なり、昭和48年カツオ組合は解散となりました。

 座間味島でも若者の島外への流失により後継者がなく座間味の海宝組合も解散。その後、施設を利用して静岡県、鹿児島県から購入した鮮魚を「ケラマ節」と銘打って出荷したが、採算がとれず加工業も停止。ついにカツオ漁業は昭和51年、座間味村から完全に姿を消したのでした。

 今では観光産業を主流にした産業が座間味村の経済を支えています。

 


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