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座間味村「ふるさと昔の話」を紹介します。

座間味
うりずんです。

 座間味村教育委員会が「ふるさと昔の話」題して今まで村民から聞き取りをしてきた民話敵な座間味村の昔の話がまとまり最近に置いて発刊の運びとなりました。この発刊に置いては宮城恒彦様と編集委員の皆様が大変な協力により完成しました。大変読みやすくて理解しやすい内容です。私のブログに幾つか紹介したいとおもいます。
先ず第一回目です。

 座間味・阿真の由来

 座間味島の先住民は約3500年前から住んでいたことが、古座間味で発掘された貝塚や遺跡から推察されています。そして、洞窟や竪穴式の住居に住み、海や山野に食料を求め、さらに、来島してきた時に持ち込んだであろう穀物を主に植え、暮らしていました。

 しかし、人口が次第に増え生活活動の範囲を広げ、ンビリ峠を越えて高月山の山裾に沿ってウンナガーラを得てマカーの山の低地に住み着くようになりました。そこを中心に集落が形成され、その後、発展していきました。マカーの杜は座間味村の発祥の地の「世の主」として祀られています。

 今の集落になっている土地は、当時は海になっており、人間の住めるような所では有りませんでした。

 また、阿真村にも、座間味と異となる2組のグループの人達がやって来ています。1組は遠い海の彼方(ニライカナイ)から永い年月をかけて久場島、屋嘉比島を島伝いに渡来し、阿真の西にある神ヌ浜という地に着きました。

 そして、数百年を経て山の尾根伝いに東へ進み、シタシ森に、ある期間とどまった後、山裾の平地に降り、そこから南下して平松辺り小高い日当たりのよい処に居住するようになりました。この来訪者達は瀬戸内海地方から奄美や伊平屋、伊江島などを経て、島伝いに南下してきた「アデビト」(貴い人)ではないかとも言われています。

 次にやや時代が経て(1000年前)来島したのは、逆臣、利勇に滅ばされた天孫子の子孫である勝連王子の一行といわれています。

 彼らは、久場島―屋嘉比島―安慶名敷島―嘉比島を島伝いいにして渡来してきました。着いた所は、この来島者も阿真の西にある「神ヌ浜」という浜でした。そこには「神ヌ浜網干場」や「神ヌ穴」という地名が残っています。

 そこは海に近く、敵に襲われる危険があるので、いつも高い所に居を構えていました。長い年月を経て、阿真シルから浜伝いに東へ進み、平松の中腹に至り、マニなどが茂って近くに泉のある所に仮小屋を作って住みました。そして、次第に平地に降り、住居を構え、今の島村渠(シマンダカリ)家の辺りに安住するようになりました。この屋号に「島」の文字がついているのは権力の象徴と言われ、その人達が阿真村の島建ての主(祖)ではないかと言われています。

 その人達の子孫から座間味の方へ分かれて行ったグループもありました。この勝連王子の長男は座間味の大屋(ウフヤ)家の先祖となり、仲家の先祖となった次男。3男は大翁長(ウフーオナガ)家の先祖です。彼らの父親は、その後、渡嘉敷島に渡り、妻を求め、できた子が按司となりました。今、渡嘉敷の祝女殿家であった長丈にお墓があります。その後、彼は沖縄本島に移動していきました。

 天孫子の子孫に神麻ヌ比屋(シンマヌウフヤー)という人がいて阿真シル城を造りました。彼は力持ちの上に勇敢で、クリ船1隻分の石を両脇にかかえ、8・9丈(24メートル~27メートル)ほどもある険しい岩山に運びあげて城を築きました。彼の投げる石弾は遠く渡名喜島まで達したといわれています。城の近くには石投げた時の彼の足跡というのが残っています。

 さらに、彼は港に散乱している石で城を造り、その跡を整備して港にしました。

 旧3月3日の「浜下り」の日になると、阿真の人達はそろってご馳走を持って城の辺りの浜辺に出かけ、グスクにお参りした後、潮干狩りなどをして1日を楽しみました。

 座間味の先住民が古座間味から座間味原へ住民が移動した頃、それに前後して、前延べたように阿真においても島外からの来島者があって、新しい部落の開発がすすめられていきました。彼等は新しい文化を持って集落を創建し、さらに、座間味にも移住してきて、大きな影響を与えたものと思われます。

 いつの時代でも新旧両者の間には何らかの衝突はつきものであるが、座間味の場合はその融合は早く、新来者の持ってきた新しい文化、特に、生産技術は先住者たちの生産に強い影響を与え、これによってこれまでの採集生活からの早期的脱却を足したものと思われます。

 その他、新しい手法が取り入れました。それとともに、両部落間における移住や人的交流も行われました。

   以上第1回目座間味村の「ふるさと昔の話」からでした。
   

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